ラフレシ庵＋ダブルメガネ

10/8に開催されるCOMIC CITY SPARK12の主花新刊２冊目サンプルです。


主人公(鳴上悠・パティシエ店長)と陽介(カフェ店長)が大人になってから出会い、恋に落ちる話。一緒に仕事をすることになり、ふたりで飲みに行ったのだが、気がついたら翌朝で…?

A5/68p/￥600(イベント価格)/R18

とらのあなで委託通販を扱っていただいてます。→★


本文サンプルは下の続きからどうぞ。

よろしくお願いします～






 女性客が甘い視線を送ってくることはある。高台に住んでいるマダム、女子大生、仕事帰りのＯＬ。そういう場合はにっこりと笑顔で応える。それくらいは客商売をしているので、サービスのひとつだと思っている。それ以降のアプローチは適当にかわしている。別に特定の付き合っている人がいるからとか、客には手を出さないとかポリシーがあるわけではない。ただ面倒なことになって修羅場など作りたくないだけだ。
 だけどまさか、男性客からそんな秋波を送られる日が来るとは思ってもみなかった。
 透明ガラスの自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
 秋の心地よい風とともに彼はやってきた。俺を見つけると、顔を一瞬で真っ赤に染めた。
 また来たか。思わず心の中でそう呟く。男一人でイートインを利用する客は珍しい。来るたび俺を探してキョロキョロするので、すっかり俺も覚えてしまった。今日もそわそわと落ち着かない様子でディスプレイの中からデザートを選んでいる。
「えっと、すいません、モンブランをひとつ。イートインでお願いします」
「いつも有り難うございます。飲み物のメニューを持って参ります。お好きな席へどうぞ」
 手で促すと、彼は一番端のテーブルの、こちら側が視界に入る席に座った。だいたいいつも月曜の昼すぎの時間帯にやってくる。一体なんの仕事をしているんだろうか。
「イートイン、おひとり様です」
 イートインの担当スタッフにオーダーを書いた紙を渡した。飲み物のオーダーが入るまでにケーキを冷やした陶器のプレートに載せて、仕上げ用の砕いたくるみを上から散らして準備する。ちらりと彼を盗み見ると、スタッフの女性に何かこそこそと話しかけている。
 戻ってきた彼女が小声で話しかけてきた。
「店長。あのお客さん、店長のファンでお話したいそうです」
「……わかった。俺が運ぶ」
 男性とはいえお客さんを無碍にはできない。注文を受けたコーヒーをドリップして煎れた。いつもなら給仕は彼女に任せているが、今回は俺がトレイに載せて運んだ。
「お待たせしました。モンブランとブレンドコーヒーです」
 肩を強張らせて緊張した様子で待っていた彼は、モンブランのデコレーションを見ると、ぱあっと目を輝かせた。
「この店の店長でオーナーパティシエの鳴上悠です。何かお話があるとか」
　彼は「はい」と頷いた。だが、目の前のモンブランが気になるようで、皿を指さした。
「…あの、その前にこれ、ひと口戴いても？」
「ええ、どうぞ」
「あ、座ってください。ゆっくり話したいんで」
　目の前の席を勧められて、座りながら、告白された場合、どう返すかを考えた。はっきり断るか、曖昧に言葉を濁すか。それとも―
 デザート男子なんて言葉があるから、きっと彼も甘いものが好きなんだろうな。彼は目で充分楽しんでから、「いただきます」と手を合わせ、スプーンで土台をクリームを一緒にすくって、口いっぱいに頬ばった。
 すると目を見開いて、興奮気味に俺を見た。
「んん？フレッシュ…！もっとモッタリしてるかと思ったらマロンクリーム、すげー軽い……。それに、あの、この下のサクサクしたの、何です？ タルトかと思ったら違うんですね」
「ああ、それはメレンゲを焼いたものです。外をチョコレートでコーティングして」
「へえ…！こんなモンブラン、初めて食べた。なんかペロッとひと口でいっちゃいそう」
 幸せそうにふた口目も食べてくれている。そんな風に心から喜んでもらえると作り手としても嬉しいものがある。
 彼はモンブランを食べ終わってから、ハッとしたように顔を上げた。
「あーすんません！ ひと口とか言いつつ、結局全部食べちまった…」
 そう言って彼は歯を見せて、恥ずかしそうに頭を掻いた。ハニーブラウンの髪色と、鳶色の瞳は今時っぽいのに、笑うと素朴な雰囲気があって、ちょっと可愛い。………いや、可愛いってなんだ。俺と変わらないくらいの年だろうに。
 さっきまでの緊張した様子といい、満面の笑顔といい、ころころ表情を変えるところが見ていて飽きない。
 今度はコーヒーを一口飲んで、なぜか真剣な表情でコーヒーを見つめている。が、ふと視線を上げた。
「あの………俺の顔、クリームかなんか、ついてます？」
 そう言われて、彼をじっと見すぎていたことに気がついた。
「いえ………じろじろとすいません。表情がコロコロ変わるから、つい目が離せなくて」
 そう言うと、面映ゆいのか、彼は頬を赤らめて眉をハの字にしている。なんかそういう顔も、なんていうか………
「あの、鳴上さんとずっと話したくて、俺………」
 上目遣いで本題を切り出されて、ドキッとした。
 真剣に、熱い眼差しで俺を見上げてくる。その瞳に捕らわれてうまく息ができない。
「俺………ここのデザートを食べた時から惚れちまって、その………もう、ずっと貴方しか考えられなくて」
 迷惑だったらすいません、と前置きしてから彼は喉を鳴らした。思わず俺も唾を飲み込んだ。
「迷惑だったらハッキリ断ってください。その方が俺も諦めがつくんで」
 黙って頷くと、彼は腕を伸ばし、俺の手を両手で取った。手に汗をかいている。けれど、それを不快に感じない自分がいた。
「良かったら、俺の店でこの店のデザートを出させてください！」
「…………………………………………はい？」
 何を言っているのか理解できなくて放心した。
「あの、俺、カフェをやってまして。そんで、デザートをグレードアップしたらお客さんにもっと喜んでもらえるんじゃないかって思ってて。だから是非、鳴上さんのデザートを提供させてほしいんです！」
 熱意ある説明を受けているうちに顔が熱くなってきた。
 俺じゃなくてデザート目当てだったんだ。なにを勘違いしているんだ、俺は。思い上がりにも程がある。思わず手で顔を覆った。
「あのー………迷惑でしたか？」
 心配そうに顔をのぞき込んでくる大きな瞳。
「いえ、その、俺のことは気にしないでください……」
 勘違いも甚だしい。そうだよな、いくらなんでも男に惚れられるなんてことはそう滅多にないだろう。ただ、カフェの店長としてこの店とコラボしたいという仕事の話だったんだ。そうだ、それだけのことなんだ…………うん。
 ………って、なんで、俺はガッカリしているんだ？
「それで………どう、でしょう？」
 じいっと熱っぽい瞳で見つめられて、うっかりまた鼓動が跳ねてしまう。つい、勘違いしそうになる自分が恥ずかしくてしょうがないので、考える振りをして視線を反らした。
「では………一度そのカフェに伺いたいと思います。どんな店なのか見させてもらって、話はそれからということで」
「あっ、そうですよね！って言うか俺、名前も名乗らずにすみません。是非。これ、良かったら」
 尻ポケットから取り出した財布の中から名刺を渡された。
 カフェ　風待ち　店長・バリスタ―
「俺、花村陽介っていいます。ご来店、お待ちしてます！」
 元気にお辞儀して、白い歯を見せて笑った。
 名刺の字を指でなぞる。
 花村陽介。向日葵みたいな名前だ。
 名前と顔がこんなに一致している人を初めて見た。花のように繊細な顔立ちで、笑うと太陽みたいに眩しい。
「花村さん、よろしくお願いします」
 握手しようと手を差し出すと、心底嬉しそうに目を見開いて、満面の笑みで握手を返してくれた。ブンブンと俺の手を振り回し、見せてくれた笑顔はやっぱり太陽みたいに眩しかった。




　風待ち＊KAZAMACHI＊
 そのカフェは駅から歩いて十分弱。その街の店舗は古い建物をリノベーションする慣例があり、個性を生かした個人経営の飲食店や雑貨店が点在していることで注目を集めている場所だ。人通りがある場所だし、立地も悪くない。
　営業中の看板が出ているのを横目に、木の引き戸を引いて開けた。
「いらっしゃいませ！ ……あ！」
「どうも」
 カラコロと鳴るベルの音とともに店内に入ると、花村さんが笑顔でカウンターから出てわざわざ出迎えてくれた。黒いハンチング帽に白いネルシャツ、そして腰で巻くタイプの黒いエプロンがよく似合っている。ちょっと腰が細すぎるのが気になるが。
 店内を見回すと二人掛けのテーブル席が四席、カウンター席が五席と、広さもひとりで切り盛りするにはちょうど良さそうだ。夕方の閉店間際の時間だからか、お客さんや店員の姿も見あたらない。
「どうぞ、こちらへ。先に店、閉めちゃいますね」
 そう言って外に出て、閉店の看板を出している。
 カウンター席に案内してもらい、座ると満面の笑みを浮かべている。
「早速来てくださって嬉しいです！そちらのお店、忙しいでしょうに、すみません」
「いや。うちはスタッフが優秀だし、日常業務はほとんど任せきりなんだ。これも仕事のうちだし構わないよ」
 あの日、うちの店で依頼されてから、なんとなくそわそわと落ち着かなかった。けれどさっそく翌日に行くのも気恥ずかしいものがあって、翌々日の今日、自分の店の戸締りをスタッフに頼んでからやってきた。
「良かったら何でも頼んでください」
 メニューを渡されて、一通り目を通した。コーヒー各種と紅茶に緑茶まである。だが確かにデザートの項目がパンケーキとマフィンだけでもの足りない。
 知らない種類のコーヒーなど色々と気になったが、まずは店の看板メニューであるブレンドを頼むべきだろう。
「じゃあオリジナルブレンドをお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 笑顔で頷くと、彼は慣れた手つきでコーヒーを煎れ始めた。鼻歌でも歌いそうな楽し気な雰囲気でカップを用意している背中のラインは確かに男のそれなのに、綺麗だと思わず見とれる。短く刈り上げた後ろ頭から首筋にかけては色気さえ感じる。
「………と」
 まだ仕事中だったと気がついて、気分を換えるために店内を見回した。俺の店は前の経営者からそのまま引き継いだので、大規模な工事はせず、そのままシンプルな内装にしてもらったが、こちらはもとの建物の良さを引き出して、きちんとリノベーションしているようだ。
 飴色の木のテーブル、座り心地の良いソファ。本棚には沿線散歩ガイドの雑誌、工場夜景や猫の写真集。店内のＢＧＭもジャズのアレンジ曲が流れていて、天井にはレトロな形のシーリングファンが回っている。小窓に吊り下がっているサンキャッチャーが太陽の光を受けて様々な色に控えめに反射していて、居心地の良さを感じる空間だ。
「お待たせしました。当店のオリジナルブレンドになります。こちらはおまけの黒糖の胡桃です。良かったら一緒にお召し上がりください」
 目の前に置かれた味がある陶磁器のカップとセットのソーサー。カップも手に馴染んで心地よい。
「有難う。いただきます」
 彼は俺の隣の椅子に腰かけた。
 それを横目に、カップを持ち上げて香りを楽しんだ。自分の店もイートインでコーヒーを出しているからわかる。これはすごく上質な豆を使っている。これ、ちゃんとコストを考えているんだろうか…。ちょっと心配になる。
「この香り…柑橘か……？」
 ほのかに、花のような香りがする。
「わかります？これ、使っている豆特有の香りなんです。鼻の良い人じゃないと気づかないんですけど。さすがパティシエさんだなあ」
 一口飲むと、口の中で更に芳香が広がる。
「香ばしい………」
 うちのイートインで出しているコーヒーとは格違いだ。コーヒーというと苦いイメージだが、これは豆本来の甘さや旨みを引き出していて、まったく苦く感じない。素朴で飽きがこない味だ。こんなにおいしいコーヒーは飲んだことがない。
 これは一朝一夕でできる代物じゃない。きっと研究や淹れ方の工夫を重ねて導き出したものだろう。自分の中のコーヒーを覆される味だ。
「すごく美味い。これなら色々なデザートにも合いそうだ」
　素直に褒めると、彼は照れたように頭を手でかいた。
「ありがとうございます。鳴上さんに誉められると、たとえお世辞でもすっげー嬉しいな！」
「俺はお世辞は言わないよ」
 そう答えると、彼は誇らしげにへへっと笑った。笑うと頬が上気して、目が少し垂れがちで可愛い。……って、だからなんだ、可愛いって。
 気を紛らわせたくて黒糖の胡桃を口にする。黒糖の優しい甘さとコリコリとした胡桃の触感が楽しい。コーヒーとの相性も良い。
「飲み物の方はひと通り淹れられてそれなりに自信があるんだけど、デザートはオリジナリティのあるものが作れなくて正直限界を感じていて。だからコーヒー目当ての男性客はわりと来てくれるんですけど、女性客、特に若い方があんまり来てくれなくて。女性客のハートをつかむにはやっぱりデザート必須だよなって」
「なるほど」
「もしできたら、三種類くらい固定のデザートと、あとは季節のデザートをひと月に一回入れ替えで提供できたらいいなあって思っているんですけど………。どうですか？やっぱ自分の店で手一杯ですかね………？」
 じいっと心配そうに見つめられて、やっぱり落ち着かない気分になる。慌てて気持ちを仕事モードに切り替える。
「聞いても良いかな」
「はい？」
「なんで俺に依頼を？他の店でも良かったんじゃないか？」
 彼に「特別」とでも言わせたいんだろうか。自分でも良くわからない。だけど何となく予感がするのだ。きっとこの申し出を受けたら、なにかが始まる。彼の傍にいると、自分が大きく変わりそうだと。
 すると彼は静かに言った。
「前に鳴上さんのインタビュー記事を読んだことがあるんです。パティシエになるきっかけってところ」
 そう言って席を立つと、カウンターの中から本を一冊持ってきた。見覚えのある本。
 たしか地域のグルメ特集で、うちの店の宣伝のために出してもらった特集記事が掲載されている本だ。
「居候先の従姉妹にプリンを作ってあげたらすごく喜んでくれて、それがきっかけで作り始めたっていうのが………なんていうか、俺のカフェを作るきっかけと似ているなって思って」
 彼は誰か大事な人を思い浮かべるような、遠い目をしていた。それを見て、胸が締め付けられるような想いがした。彼にはとても大切にしている人がいる。きっとその人のために毎日、コーヒーを丁寧に煎れているんだ。
「だから、もし鳴上さんのデザートをうちで提供できたら、俺が思い描く最高のカフェになるんじゃないかってワクワクするんです。あ、もちろん鳴上さんのデザートが俺好みってのもあるんですけど。食べるとすっげー幸せな気分になれるから」
「なるほど」
 気持ちを落ち着けたくて、もうひと口コーヒーを味わった。少し冷めたが、味はまったく落ちていない。
「ところでこのコラボって俺にとってメリットってあるのかな？ 自分で言うのはなんだけど、うちの店、そこそこ名前は売れているので売名はもう必要ないので」
「あ、それはもちろん。あのイートインのコーナーなんですけど、コーヒーや紅茶がデザートをちゃんと引き立てられていないと思ったんです。だから俺で良ければ煎れ方のコツも伝授しますし、必要でしたらうちで卸してもらっている豆を提供します。どう………でしょう？」
 自分でもイートインのコーヒーはそう思っていたが、飲み物は専門外で奥の深い世界だったから、市販のものを利用していた。確かにコーヒーやその他の飲み物がもっと美味しくなったらイートインを利用するお客さんはもっと喜んでくれるだろう。メリットは大いにある。
 俺の店の名前を借りたいだけの、おんぶに抱っこだったらキッパリ断るつもりでいた。だけど店にメリットがあって、更に自分も成長できるきっかけになるのなら話は別だ。毎月のデザートを考えるだけでワクワクしてくる。
 それに店が営業している日はデザートやコーヒーのやりとりで彼に会える。そう思うと、ワクワクとはまた違う気持ちが胸の中をいっぱいに満たした。胸が暖かなもので満たされて、くすぐったいような、むずかゆいような気分だ。こんな気持ち、久しく忘れていたような気がする。
「俺で良かったら」
「え？」
 目を見開いている彼に手のひらを差し出した。
「やらせてください。是非」
「ほ………本当に？」
 おずおずと差し出してきた手を掴んで、握手した。
「改めてよろしく」
「は、はい！鳴上さん、よろしくお願いします……！」
　手を掴んだまま、満面の笑みを浮かべて彼はお辞儀した。
「っていうか、その呼び方はかたいから、悠でいいよ。俺も陽介って呼ぶから。あと、たぶん同い年くらいだろ？タメ口で良いから」
 自分の生まれ年を告げると、「マジで同い年じゃん…！」と陽介は目を丸くして驚いている。そんなに俺は老けて見えるんだろうか………ちょっとショックだ。
 それからふたりでカウンター席に座り、コーヒーを飲みながらデザートの構想を練った。女性向けにターゲットを絞るか、あるいは他の年齢層や男性も構想に入れるかというところから始まり、デザートに合う飲み物もセットで販売するかということにまで及んだ。考えていると楽しくて、時間はあっと言う間だった。
 結局、若い年齢層の女性に的を絞ることになった。そして飲み物のセットはやめて自由に選んでもらうことにした。
 不意に陽介が壁の掛け時計を見た。
「うわ、もうこんな時間！鳴上さ、じゃない……………ゆ、悠。メシのこと、家の人とか、彼女とかに連絡しなくていいのか？」
 名前を呼ばれると何だかくすぐったいような嬉しい心地だ。
「いや、気楽なひとり暮らしだし、今はそういう人はいないから特に構わない」
「え？マジで？すげーモテそうなのに。………じゃあさ、一緒に晩メシとかどう……かな？」
 控えめに誘われて、心が浮き足立った。なんかもう、この気持ちを認めざるを得ないような気がする。
「ああ、喜んで」
 頷くと、陽介は嬉しそうに笑ってくれた。なんかもうそれだけで胸がいっぱいで、ああ、幸せってこんな感じなのかなと思った。久しく感じていなかった、こんな甘酸っぱい気持ち。恋とは思春期特有のものだと思っていた。なのにまだ出会って間もない彼にすっかり恋してしまった。





 それからふたりで歩いて、近所にあるイタリアンのレストランへ食事に出かけた。
 カウンター席に隣合って座り、前菜盛りやマルゲリータやマリナーラ、ライスコロッケなどを注文し、まずはグラスワインで乾杯した。
「そんじゃ、お互いの店の発展を祈って」
「ああ。乾杯」
 二人でグラスを掲げ、軽く重ね合わせた。
 様々な話をした。俺は高校時代にバイト三昧だったこと、居候先の従姉妹のプリンを食べてしまい、その罪滅ぼしにプリンを作ったら喜んでもらえたこと。それをきっかけに菓子作りにはまり、高校卒業後、製菓の専門学校に通いながら今の店で修行し、学校を卒業すると勧められるまま社員となったこと。三十代になってからオーナーが海外移住することになり、今の店を経営権ごと譲ってもらい、今に至るという話。
「すげートントン拍子だな…俺とは大違いだぜ」
 陽介は大学生のうちからあちこちの飲食店でバイトをして資金を貯め、去年ようやく店を開いたらしい。
「まあ時間がかかった分コーヒーや紅茶を極めることはできたんだけどさ」
「そういえばあのコーヒー、原価割れしてないか？」
 陽介はうっと唸った。どうやら図星のようだ。
「他の商品でなんとか採算はとれてっから。………あのコーヒーの味はどうしても譲れなかったんだ」
「…なにか思い入れがあるのか？」
 きっと陽介が大切にしている人と関わりがあるんだろう。陽介は頷いた。どこか遠くを見るような眼差しだった。
「片想いしてた好きな人とさ、一度だけ喫茶店に入ったことがあったんだ。そしたら彼女がコーヒーを注文して。その店のブレンドがお気に入りなんだって言ってさ」
 ぽつりぽつりと話すのを、黙って聞いた。
「それから、あの時のコーヒーの味が気になって、その喫茶店に通いつめたりバイトして研究したんだ。まあ、そんなことしても彼女をハートを射止めることはできなかったんだけどさ」
 その後、その彼女とどうなったとか、そういう話はいっさいなかった。だけど、今も彼がその彼女のことを大事に想っていることだけは嫌というほど伝わってきた。
「どうしても……彼女の笑顔が見たかったんだ」
 そんな風に大事に人を想う彼の横顔はとても綺麗だった。胸が苦しくなった。
「で、今はそういう気持ちが発端で、コーヒーを飲みに来てくれる人みんなを笑顔にしたいなって思って。へへ………ちょっとクサイ話しちまったな」
 店員が横を通ったのでワインをボトルでオーダーした。
「よし、飲もう」
　陽介のグラスと自分のグラスに注いだ。
「お、おう………っていうか、パティシエって朝早いんじゃねーの？俺はゆっくりめだから大丈夫だけど………」
「飲もう」
 もしーもし、聞いてる？という声を無視して、ワインを一気に喉に流し込む。
 こんなに飲むのは久々だ。なんとなく、苦いものを口に流し込んで胸の中の想いごと飲み干してしまいたい気分だった。陽介はなんだかんだ言いながら、それにゆっくりのペースでつき合ってくれた。
 酒の勢いにまかせて聞いてみた。
「今はいないのか？恋人は」
「あー………」
 陽介は苦い顔で笑った。
「資金稼ぎのバイトをしてる間につき合ってた子はいたよ。けど、俺らくらいの年になると美人とか可愛いとかよりフィーリングの合う子を選ばねえ？」
「たしかに」
 意識したことはないが、そう言われてみればだんだん見た目よりも一緒にいると居心地が良い女性を選んでいる気がする。
「そういう子ってなかなかいないんだよなあ。良いなって思う子はだいたい結婚してるし」
「それ、わかる気がする」
「わかってくれっかよ………」
 腕を顔の前に当て、泣く仕草をしている陽介に思わず笑った。そして陽介に恋人がいないことを喜んでいる自分がいる。
 初めて会った気がしないくらい話しやすい。楽しい。そして胸が痛い。泣きたいような、たまんない気持ちがこみ上げる。
 まるで思春期に逆もどりしたみたいだ。いい大人が自分ではどうしようもない気持ちを持て余している。
「聞いてもいいか？ 陽介のコーヒーの片想いした人とはもう会えないのか？」
 陽介から表情が消え、遠くをぼんやりと見つめている。
「………もう、会えないんだ。天国に行っちゃったから」
 何も言えなかった。
「先輩…今の俺を向こうから見てどう思っているんだろうな。やっぱうざいって思ってんのかな……」
 その問いに答えられなかった。まだ陽介のことをよく知らない俺にはかける言葉が見つからない。そして亡くなった人の想いはきっと誰にもわからない。
 たた、陽介の頭を撫でた。ハニーブラウンの髪は思っていたより柔らかい。
「んだよ、子ども扱いするなっての」
 くすぐったそうにしながらも、陽介は嫌がらずに笑ってくれた。
「じゃあ、大人の扱いをするから、おいで」
 スタッフを呼んで、その場で会計を済ませた。
「ゆ、う………？」
 その手を掴んで店の外に出た。
 彼の笑顔も涙も自分のものにしたい。どうしようもなく身体中の血がざわめいていた。彼を欲していた。
「この近くでゆっくりできる場所はあるか？」










 スズメの鳴き声が遠くから聞こえる。
「う…………」
 頭が割れるように痛い。水………とにかく水を飲もう。そう思って目を開けた。見覚えのない天井。
「……………………………え？」
 身体を起こすと、なぜか真っ裸で寝ていた。まだそれだけなら良かった。知らない部屋。ベッド。そして隣には同じく裸の陽介が眠っていた。こちらに身体を向けて、すやすやと寝息をたてている。その膝と自分の膝が擦れ合って、思わず身を引いた。
「ん………」
 俺が布団を取り退けたから、寒そうに布団をたぐり寄せてくる。その首から鎖骨にかけて赤く鬱血した痕がいくつか散りばめられている。
「ま………さ、か」
 自分の方に痕跡は特にない。強いていうなら身体が妙にスッキリしている感じはある。陽介の方は首筋以外、布団に隠れてよくわからない。その下を見るのが…怖い。
 外が明るくて、はっとして、時計を探した。ベッドサイドの置き時計はもう七時を示している。
「しまった…！」
 とっくに生地作りを始めていないと開店に間に合わない時間になっていた。俺がいなくてもスタッフが始めてくれていると思うが、店長の俺がゆっくりしている場合じゃない。とにかく、陽介を起こさないようにできるだけ音を立てず、ベッドの下に散らばっている自分の服をかき集めて身に着けた。キッチンでコップを借りて、水を一杯飲んだ。
 なにか書き置きを残すべきだろうか。しかし文面が思いつかない。「ごめん」と謝っても一体なにを謝るべきなのか。逆に誤解を生みそうだ。
 「ありがとう」や「お世話になりました」というのもこの状況では何だか………別の意味に捉えられてしまいそうだ。
かと言ってなにも書かずにこの状況で出ていくのもまずいんじゃないか？行きずりの関係ならまだしも、これから一緒に仕事をする間柄になるのだから。
 とりあえず、電話の横にメモ帳を見つけて、「仕事に行きます。また連絡する」と書いた。これならまだマシだろう。紙片をテーブルに置いて部屋を出た。
　靴を履いて部屋を出ると階下への階段があった。階段を降りて外に出ると、見覚えのある建物だったので振り返ると、それは陽介のカフェだった。住居兼店舗なんだろう。だがゆっくり見ている時間はない。電話してタクシーを呼んで、急いで店に直行した。

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