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ラフレシ庵+ダブルメガネ


アナコン5新刊「仕立て屋の恋」サンプル

2017/01/25(Wed)21:15

2/12に開催されるアナザーコントロール5(ラフレシ庵西3ホールB43a)の新刊サンプルです。
ビターな大人主花です。


「仕立て屋の恋」
A5/54p/600円(イベント価格)/R18

大学時代まで付き合っていたふたり。理由もわからないまま陽介は失踪してしまう。7年後、二人は再会し、陽介が孝介のためのスーツを仕立てることになる。その過程でふたりは互いの真意を探り合い……。未来捏造、モブも登場します。

とらさん通販→

本文サンプルはつづき↓からどうぞ~




 
 スーツというと、陽介と成人式のためにスーツを買いに行った時のことを思い出す。試着すると、陽介は目を丸くして黙ったまま俺を見ていた。
「陽介?」
なにか変だろうか。鏡で確認していると、愛しい恋人は感嘆のため息をついた。
「お前ってこういうキッチリした服、似合うなあ………」
 しみじみと俺を見て、不意に髪に触れてきたからドキリとした。
「ちょっと髪をサイドに流した方が合うと思う。ポケットチーフもちょっと豪華なやつを胸につけてさ」
瞳いっぱいに愛しさをにじませた笑顔に不覚にも息が止まりそうになった。そんな笑顔が大好きだった。いつまでも隣で見ていたいと思っていた。
そう思っていたのに。













 陽介はある日忽然と俺の前から姿を消した。










仕事に忙殺される日々。だけどそれぐらいが丁度良い。目の前の仕事に集中していれば辛いことも寂しさも忘れられるから。



 テーラー「ブルーバード」。その店は銀座のビルの谷間にあった。文明開化の時代の建物は趣がある。ドアを開けると、ドアベルがカラコロと心地よい音を奏でた。
店内に入ると、聴き馴染みのあるピアノジャズが心地よく流れていた。二階への螺旋階段や天井のシャンデリア。青を基調としたカーペットの上を歩くと自分が高貴な人にでもなったような気分だ。飴色の床やアンティークのソファも建物の雰囲気とよく調和している。
 奥には所狭しと布地が並べられている。
「いらっしゃいませ。ああ、高城様」
 その布地の棚の奥から白髪をオールバックにした初老の男性が現れた。小柄で丸眼鏡の奥に穏やかな笑顔をたたえている。白いシャツに黒のベストと黒のボトムス。ゆったりとして無駄のない立ち振る舞いは洗練されている。おそらくこの店の店長だろう。
「ごぶさたしてるね、小長井さん」
「ええ、ごぶさたということは私どものスーツが高城様にサイズもお変わりなく使われているということですから、私どもにとっては嬉しいことですよ」
 そう言って目を細め、いたずらっぽく笑った。社長はハハハッと大口を開けて笑った。
「確かにね。今度また太っちゃった時は調整頼むよ。今日はね、僕のじゃなく、彼のスーツをオーダーしたくて来たんだ」
 社長に背中を勢いよくたたかれ、思わず苦笑いした。そう、この店は完全紹介制の高級スーツテーラーサロンだ。そのためこうして社長とふたりで訪れている。小長井さんが眼鏡をかけ直し、目を細めて俺を見るとにっこりと皺を刻んだ。
「初めまして。店主をしております、小長井と申します。
お若い方ですね。社長の会社の方ですか?」
「はい、月森孝介と言います」
 俺の名刺を受け取った小長井さんは俺の上から下までをじっくりと見ている。なんだろう、俺のサイズを確認しているようにも見えるし、確信しているなにかを確認している、そんな風にも思える。
「月森はうちの会社のエースだ。彼が担当した会社や店は必ず成功するなんて伝説まであるくらいだ。今じゃ彼なしにはうちの会社は立ち行かないよ。それで今度、俺の娘と結婚することになってね。そしたらいずれ役員になるんだ。ちゃんとしたスーツを誂えたいと思ってね」
 すると突然、奥でなにか食器が割れるような音がした。小長井さんが一瞬視線をそちらに向けた後、すぐに向き直って会釈した。
「うちの者が失礼しました。立ち話もなんです。どうぞこちらへ」
ソファに誘導され、社長とふたりで腰かけた。小長井さんは奥の方に向かって声を上げた。
「花村、お客様方にコーヒーを」
「は…い」
 鼓動が大きな音をたてた。
 コツコツと足音が近づいてくる。
 店の奥からコーヒーを載せたトレイを持って、ひとりの青年が現れた。ハニーブラウンの髪。少し垂れ目がちの瞳。その姿を見て、立ち上がらずにはいられなかった。
「いらっしゃいませ、高城様、……月森様」
 一礼し、中腰になって順番にコーヒーカップを差し出す男は紛れもなく、俺の相棒であり、恋人でもあった花村陽介だ。
「陽介………!」
 色々と感慨深い想いがこみあげて、目の奥がツンとする。
「なんだね、月森。君の知り合いか?」
「ええ、高校時代の友人で、俺の相棒です」
 そう言うのが精一杯で、陽介の一挙一動から目が離せない。大学在学中に失踪してからもう七年会っていなかった。一緒に過ごしたあの頃の面影を残しつつ、あの頃にはない、表情を殺したような大人びた顔をしていた。ハニーブラウンの前髪をタイトにワックスで上げている。店主と同じシャツに黒のベストとボトムスは良く似合っている。以前よりも痩せたようだ。
 陽介は一瞬だけ目を合わせると、すぐに睫を伏せて会釈した。
「久しぶりですね」
愛想良く笑顔を作った。敬語だし、よそよそしい笑顔。無性に腹が立った。場所が場所じゃなければ殴りかかっていたかもしれない。
 社長が俺と花村を交互に見て笑った。
「こんな所で再会するなんて偶然だなあ」
 店主も頷いた。
「本当に。これもなにかの縁でしょう。花村、お前が月森様のスーツを仕立てて差し上げなさい」
「え?………しかし」
 指名された花村は何か言いたげに口を開いている。
 社長は腕を組み、眉を寄せて店主を見た。
「…彼が?若いが腕は確かなのかね?」
 社長が尋ねると、店主はにっこりと笑った。
「花村は私のスパルタ教育で残った唯一の者です。腕は私が保証しますよ。それにお若い方のスーツには同じ若者のセンスの方が合いますからね」
 そう言うと、社長も納得したように頷いた。
「なるほど。それじゃあ花村君、しっかり頼むよ」
「はい………一生懸命仕立てさせていただきます。よろしくお願いします」
 そう丁寧にお辞儀しながらも、なにかを言いたげな瞳は揺れていた。その動揺は一体なにから来るものなのだろうか。俺の担当になったことに対してなのか。それともスーツを任されたことに対してのものなのか。
 すると社長が立ち上がった。合わせて一緒に立ち上がった。
「じゃあ、支払いは俺宛で。生地選びなんかは君たちに全部任せるから好きにしてくれ。俺は先に帰るからあとは任せた」
 歩き出そうとする社長の横に立った。
「社長、先ほども言いましたように私のスーツなんですから自分で支払います」
「なあに、未来の婿殿への投資だよ」
「いえ、自分で支払わせてください。自分で買ったものの方が色々と気合いが入りますから」
 そこまで言うと、社長も渋々といった顔で頷いてくれた。
「君がそこまで言うなら構わないが、あまりケチケチしたものは作るなよ」
 頷いてにっこりと得意の営業スマイルを浮かべる。
「ええ、もちろんです。納得いくものを作ってもらいます」
 社長がようやく頷いてくれたので、内心ほっとした。今後のことを考えると、これ以上の借りは作りたくない。
「ではスーツが出来上がった際には高城様にもご連絡差し上げます。本日はお越しいただき有難うございます」
「社長、有り難うございました」
 礼を述べてお辞儀をすると、背中を軽くたたかれた。
「良いスーツを仕立ててもらえよ」
「はい」
 三人で見送った後、店主と陽介に改めて向き直った。
「スーツのことはよくわからないんで、どうぞよろしくお願いします」
「畏まらず、リラックスしてくださって大丈夫ですよ。なんでも気になることや疑問がございましたら花村にお尋ねください。どんなご要望でもお応えしますから」
 そう言って店主は奥へと下がって行った。残された陽介と俺はしばし無言のまま見合わせた。
「本当に、久しぶり」
「……まさかここで再会するなんて………思いませんでした」
 陽介はこみ上げてくる感情を抑えきれないような顔をしていた。泣きそうな顔でひとつ苦笑い。その内側の感情がどんなものであるかはわからない。けれど少しでも素を見せてくれたことにほっとした。
「敬語。使わないで普通に話してくれていいから。その方が俺も肩が凝らない」
 そう釘を刺すと、陽介はうっと唸るような声を出した。視線を彼方に向けた。おそらく店主を気にしてのことだろう。しばし逡巡してから俺を見た。
「………じゃあふたりの時だけは」
「うん、それで良い」
 俺が笑うと、陽介は堪えるような顔をした。
「………では採寸をするので、こちらへどうぞ」と奥にあるカーテンの中へと誘導された。
「コートをお預かりします」
 そう言って、ボタンを外したコートを後ろから脱がせてくれる。
 ジャケットも預けてシャツのボタンをくつろげると、背後にぴったりと立たれた。ほのかに香ってくる柑橘系のフレグランス。陽介をいっそう引き立てるような爽やかで華やかな香り。
 前を向いたまま声をかけた。
「陽介、今日は何時上がり?一緒にご飯食べよう。せっかく会えたんだし、色々話したい」
 腕回りを測ろうとした陽介はメジャーを落とした。そんなに驚くようなことだろうか。
「………当分、無理。仕立ての納期が迫ってる」
「じゃあ都合のいい日は?」
 陽介は何も答えず、ただ真剣な表情で順番に採寸していく。腕、首、肩、腰、太股、足首。別の店でセミオーダーはしたことがあるが、測る箇所は幅も丈も此処の方がずっと多い。手際よくメジャーで測り、数字をメモしていく。
「相変わらずムカつく程いい身体つきだな。ジムとか通ってるのか?」
 俺の問いには答えず、陽介は俺を見上げた。無表情。けれどなにか言いたげな目つき。どこか挑戦的ですらある。俺の内にあるなにかを呼び起こすようなそんな視線だ。
「朝、公園をランニングしてる」
「そっか。お前で型をとったら最高のトルソーになるだろうな。仕事は営業だっけ?」
「ああ、企業や個人店舗の経営コンサルタントをしている。自然と外回りやお客さんとの会合が多い。なあ、陽介」
 メモを取り終わった陽介が顔を上げたタイミングで問いかけた。
「それはテーラーとしての質問?それとも俺への興味から?」
 瞬時に顔を赤くした。怒っているようにも、泣きそうにも見える。昔から感情豊かな奴だった。自分が理不尽な目に遭うとひたすら耐えるくせに、大切な人が理不尽な目に遭うと火のように怒る。そんな陽介から目が離せなくて、何か力になりたくて、いつの間にか好きになっていた。だから高校二年の冬に告白し、陽介もその気持ちに応えてくれてつき合うようになった。

 いつだって俺の心を奪うのは陽介だった。
 自分よりも俺のことを理解してくれる一生ものの相棒で、なににも替えがたい大切な恋人だと思っていた。別々の大学に通うことになったけど、陽介のアパートに通えない距離ではなかったし、毎日のようにお互いの部屋に行き来し、週末には寝泊まりした。そんな日々がいつまでも続くものだと思っていた。
 なのに、いつの間にかひっそりと陽介の心が離れていた。突然だった。連絡がつかなくなって、アパートを訪ねたら部屋は解約されてもぬけの空だった。大学を自主退学し、両親やクマにも行き先を告げずに行方をくらましてしまった。
 陽介はなにも言わなかった。いろんな人に尋ねてみたけど陽介が姿をくらました原因はわからなかった。きっと俺との間のことが原因なのだと思う。陽介は誰でもなく、俺の前から姿を消したかったのだ。そうとしか思えなかった。

 陽介は唇を小刻みに震わせた。
「はは………なに、言ってるんだよ」
 眉を歪ませて俺を見た。
「俺はただ、テーラーとして仕事をまっとうしているだけだ。どんな仕事をしているかによって生地の厚み、釦の位置だとか、ポケットの数とか…すみずみまでこだわり抜くのが俺の仕事だ。お客さまの求めるものを追求するのが…」
「ふうん、そう」
 俺があっさり引くと、背中を見せた陽介がふうっと息を吐いたのが気配でわかった。思わず笑みが浮かぶ。
「陽介が変わってなくて安心した」
「………お前も相変わらずな。成績優秀で社長のお気に入りで、娘さんと結婚して未来の社長候補なんて、人生安泰だよな」
「嫌味か?」
 なんとなく言葉に棘を感じてストレートにそう尋ねると、カーテンレールを開けて、作業テーブルに生地のサンプルを並べ始めた陽介は「別に。そのまんま賞賛のつもりだよ」と表情もなく言った。
「さて、生地選びですが。お客様、なにかこだわりとか、こういうディティールでとかありますか?」
 自棄になったのか、わざと敬語を使って生地のサンプルを俺の前に並べて見せた。
 一瞬それらに視線を向け、だがすぐに陽介に視線をもどした。まっすぐに陽介の双貌を見つめた。
「俺の要望はひとつだけ。陽介が俺に着せたいと思うスーツを。時間や金はいくらかけてもいい」
 即答すると、陽介は面を食らったように言葉もなく俺を見た。
「…なに、馬鹿な、ことを……」
「俺は真剣に言っている。付き合っていた頃、お前に服や腕時計や靴を選んでもらったことがあっただろう?陽介はいつも俺に一番似合う物を選んでくれた。だからきっと今回も俺を引き立てるような極上のスーツを誂えてくれると信じている。だから俺からはあえて細かな要望はしない」
 陽介はしばらく立ち尽くした。自分を抱きしめるように片手でもう片方の腕をぎゅっと掴んだ。
「んで………えは………」
 なにか呟いたが、なにを言ってるかは聞こえなかった。
尋ねたかったが、その前に陽介が動いた。次々と布地を選んで並べ、俺の前で合わせる。真剣な眼差しだ。ここで口をはさむのは野暮な気がして、黙ってそれを見守った。
 陽介がいくつかの布地やボタンの中からひとつを決定した。預けていたジャケットを着せてもらうと、奥から店主の小長井さんがやってきた。
「お疲れ様でした。いかがですか?」
 人の良さそうな笑みを浮かべて尋ねてきた。
「ええ、良いスーツができそうで今から楽しみです。今日はこれで終わりですよね。陽介、さっきのご飯の約束だけど、いつにする?」
 わざと小長井さんがいる前でそう尋ねた。上司である小長井さんの手前、陽介はきっと断れない。俺がそう予想しているのがわかったんだろう、コートを手に持った陽介が歯噛みしている。
「いいじゃないか、旧友のお客様からのお誘いなんだ。行ってきなさい」
 小長井さんがそう背中を押してくれて、陽介はうつむいたまま無機質な声で言った。
「……来週の日曜の夜でしたら」
「ああ。スーツの出来具合を見がてら迎えに来るよ」
 陽介の代わりに小長井さんが二度三度と頷いた。
「ええ、仮縫い段階で一度試着していただきたいので是非。花村ともどもお待ちしております」
 陽介は何か言いたげな顔をしていたが、何も言わずコートを着せてくれた。店を出るタイミングでドアを開けてくれ、店の前で深々とお辞儀をする。
「またお待ちしております」
 陽介の表情は最後まで固かった。マイナスからのスタートなのだ。最初はこんなものだろう。勝負はこれからだ。
外は雪でも降り出しそうな凍てついた空気で、いっそう身が引き締まる思いだった。



 トルソーに選んだ生地を巻き付けて、イメージを確かなものにさせる。全体的にはシンプルだけど細かなところは凝ったデザインにしたい。孝介に似合うスーツならばいくらでもイメージが湧いてくる。
 孝介のためのスーツを仕立てる日が来るなんて夢にも思わなかった。いや、ずっと妄想だけはしてきた。俺が寸分違わず丁寧に仕立てた服を誰よりも優雅に、かっこ良く着こなす相棒。
どのお客さんを仕立てる時も、孝介のことを思わなかった日はない。孝介だったらこの生地の方が合ってる。この要望のデザインなら孝介の方がずっとかっこ良く着こなせる。そう思ってきた。まるで情念を針と糸で紡いで一枚一枚仕立て上げてきた。
 すると小長井さんがやってきて試着室のカーテンを整えた。
「いいお客様がついたね。花村。きっとあの方は一生お前を指名してくださる。そういう方だ」
「小長井さん……。どうして…どうして俺を担当にしたんですか?小長井さんがいつも通り担当すればいいじゃないですか。俺にはまだ全部なんて早いです…」
 小長井さんに何着もいっぺんにオーダーされるお客様に限ってそのうちの一着だったり一部分を任されることはあった。けれど、お客様の担当そのものを任されたのは初めてだった。
「そろそろお前にも独り立ちの時期が来ていると思っていたところだ。なにより」
小長井さんは眼鏡の奥の瞳を緩めた。
「彼なんだろう?お前が今までの人生を捨ててまで逃げてきた相手は。見てすぐわかったよ。お前が初めて仕立てたスーツのサイズと雰囲気そのものだったからね」
 そう言われ、立ち尽くしたまま何も答えられなかった。
 一通りスーツの仕立てについて学び、初めてひとりで仕立て上げたスーツ。それは相棒のためのスーツだった。いや、正確には孝介が着る姿を想像して作った、俺を慰めるためのスーツだ。
いつだって俺の心の奥には相棒、月森孝介がいた。忘れたくて、でも忘れられなかった人。

















 ここにいると都内だということを忘れてしまいそうになる。
 ガラス張りの向こうに竹林と鯉が泳ぐ池が見える。池の真ん中には朱塗りの小さな橋が架かっている。それを眺めるためのカウンター席は俺たち以外誰もおらず、竹籠の中の赤いろうそくの灯りが淡く俺たちの顔を照らしている。
 出される料理はどれも繊細で芸術的で、丁寧に出汁をとって作られたであろう料理は食べたことのない食材も多くて、最後のデザートまでとても美味しかった。それに接客もちょうど良いタイミングで声をかけてくれるし、会話の邪魔にならないようさりげなく皿を片づけてくれる。チップでもつけたくなるサービスだ。
たぶんデートでだってこんな所には来ない。来るとしたら本命へのプロポーズか、銀婚式とかの節目にでも来る所だ。少なくとも男友達ふたりで来るような場所じゃない。
「陽介、酒弱かったっけ?全然すすんでない。口に合わなかったか?」
「え…いや、すげー旨いよ………けど、ここ、すげーお高いんじゃねえの?」
 声を潜めて尋ねる。なにしろこの酒もお品書きに値段が載っていなかった。
「支払いのことなら気にするな。このボトルも前に大口の取引先から感謝のしるしとしてキープしてもらったものだし」
 それに、と白い歯を見せて孝介は言葉を重ねる。
「陽介を落とせるなら価値ある投資だよ」
「冗談はたいがいにしろよ」
 常連なのか、カウンターの向こうにいる料理人も孝介を見知っていて「いつも有り難うございます」と笑顔で挨拶してきた。こんな店に普段から出入りするような仕事って相当だよな。そういえばスーツだけじゃない、ネクタイや靴など身につけているものも上等な物をつけている。
 前回うちの店に来ていた時と同様、シルバーの指輪を左手の薬指につけている。見たくないのに、確認せずにはいられなかった。なのに口説くようなことを言うなんてどういうつもりなのか。聞きたいような聞きたくないような複雑な気分だった。
「あ………」
「ん?」
 思わず漏れ出てしまった声を孝介は聞き逃さなかった。顔を傾けて俺を見ている。
「や…その時計、今でも使ってるんだなって…」
 孝介はふわりと笑顔を見せて自身の腕時計を見た。
「ああ……陽介が俺の二十歳の時にプレゼントしてくれた物だし、大事に使っているよ。周りの人にも似合ってるって良く言われる」
 そういう言い方はずるい。ぎゅうっと胸が締め付けられるように痛くなった。
「なんでお前は……」
「なに?」
「なんでもない」
 もう結婚する男なんだ。俺がどう想っていようと、もうどうにもならないし、今更元の関係になんて戻るつもりはない。
「陽介は」
 するりと手が伸びた。その仕草に見とれて、何をされたか一瞬わからなかった。
「耳の穴、塞いだんだな」
 耳に指で触れられた。一瞬、耳たぶをさすられて、慌てて身を引いた。触れられた所が火傷したみたいに熱くていつまでも冷めてくれない。それを手で覆って隠した。
「っ………いつの、話だよ………とっくの昔に塞いだっつの……仕事に差し支えるし」
「シンプルなピアスなら差し支えないと俺は思うけど。今でも思い出すよ、陽介の耳に穴を開けた時のこと」
 ピアスの穴を開けた時のことなら俺だって覚えている。何度も繰り返し思い出していた。
 ピアッサーを買ってきて、孝介に開けてもらった。あの時の興奮、大事そうに触れてくる孝介の指の感触、それらが一瞬でリアルに蘇ってくる。
「すごく興奮した」
 小声で囁かれ、思わず振りかぶった。
「やめろよ、そーいうの………っ、もう、終わったことだろ………」
 あの夜はいつもより激しく揺さぶられた。強引に、熱情のままに求められた。忘れたくても忘れられるわけがない。
 でも、もう俺たちは終わったんだ。終わりにするって決めたんだ。だから出て行った。別れても友達のフリなんて、俺には絶対できないと思ったから。
 けれど孝介は首を振った。
「俺は終わったなんて思っていない。何も言わず出て行ったお前の心をなにも聞いていない」 
「わかるだろ。離れた、それ自体が答えだって」
「納得できない。陽介の気持ちが俺から離れたなんて思えない。ちゃんと本音を聞くまでは俺は納得できないからな」
 それは逆だ。お前の気持ちが離れたんだろう?
 いつしか相棒はピアスを開けた頃のように、俺を無茶苦茶に抱くことをしなくなった。何度も飽きたらず俺に欲情していたのに、ある頃から、女のように優しく扱うだけになった。そしてそれとなく俺以外との交流を少しずつ増やしていった。
「お前、あの頃もう俺に飽きてただろう?それか他に好きな奴ができたとか」
「は?何を言っている」
 女みたいに胸もくびれもない。セックスしたって孝介の子どもを産めない。特に取り柄があるわけでもない俺を孝介は愛してくれた。いつか孝介に飽きられるんじゃないかってずっと怯えていた。
 だから孝介が急に優しくなって、ついにその時が来たんだと思った。孝介からいつか別れを切り出されるんじゃないかって怖くてビクビクしてた。孝介から関係を絶ち切られるより、自分で去った方がよっぽどマシだと思った。だから夜逃げするみたいに黙って孝介の前から消えた。
「俺は」
「いいって、もう終わった話だろ。お前は奥さんになる人をゲットして、いい会社で勤めて、将来を約束されていて。そういう幸せを掴んだんだから。ちゃんと前を向けよ。俺なんかに構ってる暇なんて無いだろ」
「陽介はどうなんだ?お前の意思を知りたい。俺のこと、もう昔の男だと思っているのか?」
 狡い聞き方だ。そうやって接待相手も、婚約者も口説き落としたんだろう。その中の凡庸なひとりになりたくはなかった。だからあえてつまらない様子を装って息を吐いた。
「お前のことなんて、もうとっくの昔に過去だよ」
「……誰かつき合ってる奴がいるのか?あの、小長井さん?」
「お前には関係ない。もうほっといてくれ。今更俺をひっかき回さないでくれ。平穏に……まっとうに暮らしているんだ。彼氏面して関わろうとされても迷惑だ」
 ぴしゃりとはねつける。相棒は芯が強くてまっすぐで、曇りない瞳ですべてを見通す奴だった。だからきっとこれくらいじゃ諦めないだろう。
「俺は諦めが悪いからな。覚悟してろ。お前の真実を見抜くから」
 ほら、やっぱり。その瞳がぜんぶを見通すみたいに俺を映す。せわしない心臓。それは酒のせいだけじゃない。どうか今にも溢れ出しそうなこの想いがバレませんように。
 いつの間にか孝介の手が俺の腕にぴったり寄り添っていた。
 ゆっくりと手の甲を指で撫でられる。ざわり。全身の細胞がざわめいた。けれど、その指にはシンプルな婚約指輪が光っていて。手に持っていたお猪口から酒がこぼれた。
「……お互い酔ってるみたいだから解散しようぜ。ごちそーさん」
 立ち上がると、「送るよ」と孝介も立ち上がったから手で制した。
「そういうのは婚約者に言えよ」
「送り狼が怖い?」
「言ってろ」
 いーと歯を見せて、顔を見ずに立ち去った。店員からコートを受け取って店の外に出た。そっと後ろを窺うと、さすがに追ってこなかったようだ。ほっと息をつく。俺の気持ち、バレなかっただろうか。さすがに相棒は手強い。予想もつかないような返しをして俺を追いつめてくる。俺の下手な演技なんか見透かされてるような気がする。
 だけど、俺の想いは深い深い海に沈めてしまったのだ。今更浮上させてどうする。だいたい孝介は結婚するのだ。俺に中途半端に手を出してどうするつもりなんだろう。無性に腹が立った。
「あれか、えーと………」
 独身の最後を謳歌するというような言い回しがあった気がする。本当に酔いが回っているのかうまく思い出せない。火遊び?焼けぼっくいに火がつく?
 どちらにせよあいつにとって俺とのことは遊びなんだ。駆け引きをし、落とすまでを楽しむためのゲームなんだ。その先のことなんて全く考えてないに決まっている。そんな一時の感情に振り回されるのなんてごめんだ。それに孝介の婚約者がなんて思うか。誰かを不幸にするようなことなんてしたくない。



 銀座まで地下鉄で戻り、駅前の繁華街に出る。
 その中の海外ブランドショップが視界に飛び込んでくる。まだギリギリ営業時間みたいだ。勢いのまま店内に入った。
 孝介がつけていたあの香りは、たしかこのブランドのフレグランスだったはずだ。仕事柄、そういう情報にアンテナを高くしていた甲斐があった。
 当たりをつけたトワレのサンプルを紙につけて匂いをかぐ。ミントのような透明感のある爽やかさ。そしラストノートに向かって官能的な香りに変わっていく。孝介にぴったりの香り。
 これだ。間違いない。
すぐさまレジを打ってもらい、会計を済ます。
「プレゼント用の包装にいたしますか?」
「いえ、簡単なので大丈夫です」
 ショップの紙袋に入れてもらって、すぐさま帰路についた。



 店の裏手にある従業員入り口から鍵を開けて入った。灯りをつけたが辺りはしんとしている。小長井さんは帰宅したようだ。静寂に包まれた店内は夢の終わりみたいで少し寂しい。店のBGMのスイッチを入れ、タイマーで音楽が自動で切れるようにした。
螺旋階段をゆっくり上がりながら音楽に合わせ鼻歌を歌う。ちょうど俺の一番好きな曲だ。美しいバラード。時にスイングをきかせて、時に甘く切なくゆったりと。恋を失い、それでもなお生きるという英語の歌詞は今の気分にぴったりだ。
 二階の仮眠室だった部屋を寝床にさせてもらっているから必要最低限の物しか置いてない。その中でトルソーだけは特別だった。廃棄になりそうだったものを小長井さんに頼んで譲り受けた。それに俺がテーラーになって初めて仕立てた孝介のスーツを着せている。出窓から零れる月の光に照らされて、キラキラと美しい輝きを放っている。
 先ほど買ってきたトワレの包装を開けて、スーツの衿の部分にひと噴きする。一瞬でトワレの香りに包まれる。その香りを肺いっぱいに満たすように吸って、トルソーを抱きしめた。
「ただいま……」
 孝介がつけていたトワレ。この香りに包まれた孝介に耳に触れられて、手の甲に触れられて。それだけで半勃ちしてしまったから慌てて席を立った。バレなかっただろうか。本当はもっとあの声が聞きたかった。触れられた耳が、手が、今もまだ熱い。あの場に居続けたらどんなことを口走ってしまうかわからなかった。
「なあ、俺を抱いて………孝介」


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