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ラフレシ庵+ダブルメガネ


【主花】「家族ごっこ」サンプル

2023/01/31(Tue)20:46

事件が起きずテレビの中の世界がない八十稲羽。
主人公が小西先輩の息子として生まれ、陽介に引き取られて家族になるという特殊設定の年の差主花。
pixivで掲載した全編に書き下ろし約9ページを加えました。

A5/284p/2500円(イベント・自家通販価格)/R18
とらのあな→https://ec.toranoana.jp/joshi_r/ec/item/040031046234

以下のリンクが本文サンプルです。(1話分)
R18部分はこちらに掲載できないため、とらのあなのサンプルをごらんください。





 八十稲羽に戻ってきたのはとりたてて大きな理由があったわけじゃない。全国チェーンのシティホテルに就職したら川崎の店舗に配属されて、三年目に配置換えになって八十稲羽の店舗に異動になったからだ。
 ホテルマンとして過ごす日々は大した刺激もなく退屈だ。八十稲羽には寮もあったけど、仕事仲間と一日中顔を合わすのはずっと仕事している気分になるから嫌だった。プライベートは仕事を忘れて楽しみたい……って言っても転勤してからこっち彼女はいないし、大した趣味もないからだいぶ暇を持て余しているけれど。
 市内にある実家に住むこともできたけど、シフトによって昼間勤務の時もあれば夜遅かったりもする不規則な生活で、両親の睡眠妨害になりそうでそれもやめた。
 というわけで、今現在はホテルの徒歩圏内で気楽なひとり暮らしをしている。
 退屈な日常を吹き飛ばしてくれるようななにかが欲しい。そう、たとえば美人がうちの隣に引っ越してくるとか、八十稲羽に有名人がやってくるとか。そんなことを妄想しながら休みの日、ジュネスで夕飯用の総菜を買って、なんとなくいつもとは違う道を通って遠回りをした。
 八十稲羽商店街。
 高校生の頃も閉店した店は多かったけど、あの頃よりも更に古びて、残っている個人店舗はごくわずかだった。そのかわり、新しくチェーン店の飲み屋やコインパーキングが増えている。
 そんな古びた商店街の一角に酒屋がある。小西先輩の実家だ。ジュネスのバイトで仲良くなり、俺が一方的に憧れていた感じで、一回だけ俺が猛烈アタックしてふたりで映画を観に行ったこともあった。その後は先輩にのらりくらりとかわされて、告白なんかできる雰囲気じゃなかった。いつも先輩はどこか遠くを見ている気がした。
 先輩は高校を卒業してすぐに姿を消した。都会に住む恋人と駆け落ちしたらしいとの噂を聞いた。それから先輩とは一度も会っていない。メールも電話も通じなくなってしまったから消息もわからなかった。
 ダメ元の玉砕覚悟で告白すれば良かったんだろうか。でも、なんとなく断られるのはわかっていたし、先輩もそういう雰囲気を察して線引きしている感じがしたから何も言えなかった。
「ばかやろう! どの面下げて帰ってきたんだ!」
 男の怒声が近くで聞こえて、何事かとそちらを見た。その声は酒屋からだ。店先で男が女性を追い払っている。追い払われている女性は小さな子どもと手を繋いだまま深くお辞儀している。
 背中しか見えないけどウェーブのかかった長い髪をひとつに束ねていて、線の細い女性だ。……まさか。もしかして。
「私のことは罵られても仕方ないって思う。だけど、この子のために……お願いします。私が仕事を見つけて、新しい家が見つかるまでの間だけでも。しばらくの間住まわせてください……!」
 手を繋いでいる子どもが彼女を見て、一緒にお辞儀を真似ている。
 切実な願いも空しく、奥から出てきた中年女性が首を振った。
「いきなり来られたって……近所の手前もあるし……気持ちの整理もつかないわ」
 お辞儀していた女性は元に直り、黙って頷いた。
「そうね……こっちの都合でいきなり押し掛けてごめん。出直します」
 そう告げて店先からこちらにやって来た。
 店のドアは大きな音を立てて閉められた。
 立ち尽くした女性はふうと小さなため息をついた。どこか遠いところを見つめているみたいに、儚げな瞳。
「先輩……?」
 あの頃の面影が残っていた。あの頃のちょっとだけ寂しそうな笑顔が脳裏に甦ってきた。
「え……? もしかして、花、ちゃん?」
 懐かしい呼び方にやはり小西先輩だと確信した。
「小西先輩! やっぱり! こっちに戻ってきてたんすか?」
「うん。今日、ちょうどね……」
 たぶん俺が様子を立ち聞きしていたことに気がついたんだろう。ちょっとバツの悪そうな顔で苦笑いしている。
 彼女の隣には男の子がいた。もしかして……。
「あ。この子、悠って言うの。私の息子。可愛いでしょ」
 そう言われて衝撃を受けた。いや、子どもがいても全然おかしくない年齢なんだろうけど。ついこの間のことのように先輩を思い出していたから、浦島太郎にでもなった気分だ。
 きょとんとした目で俺を見上げる男の子は小学生の低学年くらいだろうか。色素の薄い目と髪。繊細な顔立ちをしている。なにより吸い込まれるような雰囲気がある。先輩が「可愛い」というのは確かで、親の欲目だけじゃない。
「よう、悠。俺は花村陽介。よろしくな」
 しゃがんで悠と同じ視線の高さになって挨拶した。すると悠は頭を倒してお辞儀した。
「鳴上悠です。こんにちは」
 先輩、鳴上って人と結婚したんだ。そしてこの子を産んで育てて、もう何年にもなるベテランお母さんなんだ。何だか自分だけゆっくりした時の流れの中に取り残されたような寂しい心地がした。
「ねえ、花ちゃん。この辺で安く泊まれるところってあるかな? さすがに子連れで昔の友達の家には押し掛けられないし、八十稲羽も久しぶりでわかんなくて」
「あー。だったら心当たりがあります。ちょっと待ってください」
 スマホを取り出して、勤め先に電話をかけた。
「あ。お疲れ様です、花村っす。突然なんですけど、ふとん部屋、今日からしばらく空いてますか? ……いや、俺じゃなくて、お世話になった人が安いところ探してたんで……」
 同僚の四方田さんから『あ、もしかして花村君の良い人ー?』とからかわれて慌てて否定した。
「いやいや、そんなんじゃないっすよ! とにかく今から行くんで。はい。俺の名前でお願いします。それじゃ」
 通話を切ると、先輩に軽く説明した。俺がシティホテルの従業員をしていること、そしてホテルが満室の時、どうしてもというお客さんのために提供される通称ふとん部屋という予備の布団が置かれている場所があり、そこならシャワーもついていて、従業員割引を使えば一日千円で泊まれることなど。
 先輩はそれを聞いて安心したように息を吐いた。
「ありがと……すごく助かるよ」
「んじゃ、案内するんで一緒に行きましょう」
 一緒に歩いていると、途中に公園があった。子どもの姿はなく、遊具が淋し気に佇んでいた。
「懐かしいなあ………子どもの頃、よくここで遊んだんだ。尚紀の背中を押してブランコを高く放り投げたりして、よく泣かせてたなあ」
 懐かしそうに瞳を細めて笑って「悠、遊んでおいで」と小さい背中を押した。悠は辺りの遊具をキョロキョロ見渡し、やがてブランコに座って小さく揺らし始めた。
 先輩はベンチに腰掛けた。悠の様子を見ながら先輩はこれまでのことを話してくれた。
「何から話したら良いのかな……」
 旦那さんの始めた事業がうまくいかず、ついに仕事をやめてしまったこと。新しく就いた仕事も長続きしなくて、悠や先輩に当たり散らすようになり、長い間家に戻らず失踪してしまったこと。
 仕事をしながらひとりで悠を育ててきたけれど、悠が熱を出したり体調を崩すたび早退していたため、仕事の契約を切られてしまったこと。
 このままでは生活がままならないので、音信不通にしていた実家に頭を下げて戻ってきたけれど、さっきの有様で、追い返されてしまったこと。
 泣きたくなるような出来事を先輩は淡々と話している。きっといろんなところに頭を下げたりしてきたんだろう。事情を話すのもすっかり慣れた様子だ。それがなんだか悔しくて悲しい。
 ずっとひとりで頑張ってきたんだ。疲れた様子なのは決して旅疲れだけではないだろう。
「でもね。悠が笑うと疲れも吹き飛んで頑張れちゃうの。不思議だね、子どもって」
 疲れていても、そのまっすぐに前を向いている姿は高校生の頃の先輩と少しも変わっていなかった。むしろ母親になって、いろんな経験を経て、強くなったようにも思える。
「俺……先輩のために力になりたいんです。なんでも言って俺を頼ってください」
 思わずそう口に出していた。すると先輩はこちらを振り返った。会ってからずっと硬かった表情がすこしだけ和らいだ。
「花ちゃん……ありがとう。うん、花ちゃんならそう言ってくれる気がしてた」
 ふふ、と笑う顔は依然よりやつれていたけれど、あの頃と変わらない、まぎれもない大好きだった先輩の笑顔だ。
 するといつの間にか悠が俺たちの近くに立っていた。目を大きく見開いて、頬を赤くして俺を見ていた。ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「どうしたの、悠?」
「魔法使いだ………」
「え?」
 悠が俺をキラキラした眼差しで見上げてくる。
「………お兄ちゃん、魔法使いだ! だって、お母さん、笑った!」
「ええ?」
 そんなたいそうなことをした覚えはない。けれど先輩は悠の髪を撫でた。
「そうだね。花ちゃんは魔法使いかもしれないね」
「うん!」
 元気に頷く悠はさっきよりも頬に生気を感じる。もしかしたら先輩はずっと笑えていなかったのかもしれない。それを傍で見ている悠も辛かったんだろう。お母さん想いの優しい子だ。
 旧知の仲だからという理由だけじゃない。ふたりに笑ってほしい。そのために何か俺にできることがあるなら力になりたい。心からそう思った。


 道すがら、新しくできた日帰り温泉を案内し、ジュネスで夕飯の買い出しを終えてホテルに着く頃にはすっかり日が暮れていた。カウンターにいる四方田主任(ニヤニヤとこちらを見ていたが笑顔で黙殺した)に受付してもらい、ふとん部屋に入ってたたみの上に布団をふたり分敷いた。
 悠はその上にころんと寝転がるとあっと言う間に寝てしまった。きっと長旅で疲れたのだろう。
 それを柔らかな表情で見届け、先輩はこちらを振り返った。
「花ちゃん。本当にありがとうね」
「いえ。先輩たちのお役に立てることがあるなら、本当に何でも言ってください!」
 そう言うと、先輩は「変わってないね」と微笑みを浮かべた。
「花ちゃんが全然変わってなくてホッとする」
「それ誉めてます? つーか、先輩も全然変わってないですよ。……や、こっちはもちろんいい意味で!」
 本質的なところは変わっていない。芯の強くて、自分の大切なことのためにちゃんと戦える人だってところとか、俺にも優しいところとか。
「……そうだといいな」
 そうぽつりと呟いた顔があんまりにも寂しそうで、思わずその細い肩を抱きしめたくなった。
「先輩は……再婚はしないんですか?」
 思わず尋ねてしまい、慌てて口を手で押さえた。なにを言ってるんだ、俺は。だいたい再会したばっかりで、先輩も色々あって疲れているのに。
 先輩は静かに目を伏せた。
「私、まだ離婚の手続きをしてないから。でもそうだね……身の回りの色んなことが落ち着いたらそういう選択肢も悠のためにもアリかなって思ってる」
「そうですか……」
 思わず心の中でガッツポーズしてしまっている自分がいる。いや、先輩が大変な時に何を考えているんだ。
「あの、今日はゆっくり休んでください。明日、また様子を見に来ます」
「花ちゃん、明日はお仕事?」
「はい。午前からのシフトです」
 先輩は両手を合わせて俺を見上げた。
「お願い。できたらしばらくここを貸してもらえないかな? それで悠はここに置いていきたいの。親の所とか仕事探しにも行きたくて。……悠のこと、お願いできないかな」
「先輩……」
 先輩の心苦しそうな顔を見ているとこっちまで胸が苦しい。子どもを育てるのってきっと本当に大変なんだろうな。
「わかりました。休憩時間だけで良ければ様子を見に来ますよ。同僚にも気にかけてもらうように言っとくんで」
「ありがとう……。本当に助かるよ」
「悠、明日はよろしくな。それじゃ、先輩、ごゆっくり」
 あどけない顔で眠っている悠に「おやすみ」と声をかけて立ち上がった。
「本当にありがとうね」
 ドアの前まで見送ってくれた先輩の寂しそうな微笑み。
 まさかそれが先輩と会う最後の日になるなんて俺は夢にも思わなかった。
 外は雨がしとしとと降り出してきた。


 翌朝。このところ雨が続いていたせいか八十稲羽独特の濃い霧が出ていた。時折雨も降るとのことで傘を持って家を出た。
 就業時間よりかなり早めに従業員の出入り口から入って着替えると、フロントカウンターにいる同僚の三井さんに挨拶をした。
「おはようございまっす」
「おはよう。早いわねえ」
「ええ、まあ。せんぱ……ふとん部屋のお客様は?」
 あらかじめ従業員に親子連れだと伝達をしてあったので、すぐに理解したように頷いた。ホテルに子どもを置いて出かける親は意外に多いのだ。
 それには色んな事情があるからホテルとしては何も言わない。子どもに親にも、すべてのお客さんが心地よく過ごせるようにすることが俺たちの仕事だからだ。
 三井さん自身が二人の男の子のお母さんだから感じるものがあるらしい。微妙な表情をしながらも答えた。
「随分前に母親だけ出ていったわよ」
「了解。ちょっと子どもの様子を見てきますね」
 ノックしてふとん部屋に入ると、悠が国語の教科書を読んでいた。
「おはよう。お母さんはもう出かけたのか?」
「うん……」
「そっか。ひとりじゃ退屈だろ。この中から好きなのを使って遊んでいいからな」
 お客さんで子連れの人がいる時のために絵本やおもちゃを用意してある。その中からいくつかを借りてきた。
 それを見て、悠は首を横に振った。
「なんだ。興味あるやつがなかったか?」
 悠は無言で窓の外を見ている。今は雨が降っているようだ。
「もしかしてお母さんが気になってる?」
 悠はこちらを見て頷いた。
「お母さん、カサ持ってなかった」
「そっか。悠は優しいな」
 お客さんで傘を持っていない人がいたら従業員が貸し出してくれると説明すると、ほっとしたように胸をなで下ろした。
「お母さん、早く帰ってこないかなー」
 そう言って、窓の外を見ている姿になんだか胸が締め付けられる。
「用事が終わったら悠に会いたくて、きっと走って帰ってくるよ」
 悠の髪を撫でると、くすぐったそうに目を瞑った。繊細な顔立ちで、睫がきらきらと輝いている。将来モテそうなツラだなあ、こいつ。そう思っていると、悠は俺をじっと見た。
「お兄ちゃんはお母さん、好き?」
「ふえっ?」
 思わず変な声を上げると、色素の薄い瞳が俺をじっと見上げてくる。俺の返答を待っているらしい。
「……好き、だよ」
 決して変な意味ではなく、一児の母として精一杯頑張っている姿を応援したいと思うし、尊敬もしている。
「好きだよ。いつも前を向いて一生懸命生きているところとかさ、悠のために頭を下げてお母さんしている姿、かっこ良くて好きだなって思うよ」
 そういうと、嬉しそうに悠ははにかんだ。
 可愛いな。お母さんのことが大好きなんだな。
「やっべ。俺、もう行かないと。なにか困ったことがあったら受付カウンター…一階の入り口にいるから。いつでも来てくれよな」
「うん」
 素直に頷いた悠のために、やっぱりさっきの玩具は置いておいた。悠に手を振って部屋をあとにした。
 今日は昼間シフトだから、夕方に退勤できる。その後、親父に車を借りて三人でメシでも食いに行こうか。そう思いをめぐらせながら、ひとつひとつ仕事を丁寧にこなしていく。
 チェックアウトするお客様には「行ってらっしゃいませ。またお待ちしております」と笑顔で見送った。
 部屋の清掃は髪の毛ひとつ、塵ひとつ残さないよう念入りにチェックする。
新しいシーツは皺ひとつなく。流れ作業になってしまわないよう、お客さんの笑顔を思い浮かべながら丁寧に、手早く。
 ホテルにもよると思うが、うちのホテルはスタッフが様々な業務を時間や曜日でローテーションして行う。マンネリになってサービスの質が低下しないための措置だ。
 チェックアウトした部屋の清掃チェックを終えて、フロントに戻ると、昼すぎになっていた。悠は今頃どうしているだろうか。
「じゃあ俺、昼休憩に入ります」
 同僚に声をかけ、ふとん部屋に行く。ノックして入ると、一瞬顔を輝かせた悠が、俺だとわかって一気にしゅんとなった。
「おいおい、お母さんじゃないからってそんな顔すんなよ!」
 昼飯を食べたか尋ねると、コロッケパンと野菜ジュースの食べた後を見せてくれた。
「それだけじゃ育ち盛りには足りないんじゃねえの。ほら、これも食えよ」
 俺のコンビニ弁当からハンバーグを箸で切り分けて差し出すと、悠はふるふると首を振った。
「お母さんが知らない人から食べ物とかおもちゃをもらっちゃいけないって」
「ええ? 俺、まだ知らない人枠かよ」
 まあ確かに悠からしたら昨日知り合ったばかりの人だけど。どうやったらもっと信用してくれるんだろうか。
「うーん、お母さんは俺のこと、なんか言ってたか?」
「……こまったことがあったらあのお兄ちゃんに何でも言いなさいって。きっと助けてくれるからって言ってた」
 そう言われて胸がじーんとした。先輩に頼りにされているのが実感できて、すごく嬉しい。
「うん。俺、悠が困ってたらいつでも助けたいと思っているから。もっと甘えたり、わがまま言って良いんだぞ。その方が俺も嬉しいから」
 そう言うと不思議そうな顔をして首をかしげた。
「わかんなくてもいいから。困ったことがあったら、俺のこと、思い出してくれよな」
 そう伝えると、悠は「うん」と顔全体を動かして頷いてくれた。その頭を撫で、弁当を食べ始めた。切り分けたハンバーグは結局食べてくれなかった。
 親子ふたりで生活してきたんだ。ひとりきりでいる時に自衛するのは当然なのかもしれない。悠が心を許してくれるまでには時間がかかりそうだ。
「お客様、失礼します」
 ノックの後、同僚の三井さんが一礼して入ってきた。たとえ子どもだろうとお客様が中にいるのにそんな風に声をかけることはまずない。彼女は無言のまま俺に目で外を示してきた。何かあったんだろうか。悠に「またな」と声をかけてから廊下に出た。
 ドアを閉めると、三井さんが深刻そうな顔で俺を見た。
「……なんっすか?」
 三井さんが声をひそめた。
「警察からの連絡があってね、うちの貸し傘を持っていた人が交通事故に遭ったんだって。私、花村君の知り合いの方にしか貸してないんだけど、他に心当たりある? 長い髪の女性みたいなんだけど、身分証明を持ってないみたいで」
 ドクンと心臓がいやな音をたてた。ドクンドクンとずっと鳴りやまない。
「……いえ、俺、今日は誰にも……」
「身元確認に来てほしいって言われたんだけど……ねえ、ちょっと、花村君。大丈夫?」
 三井さんに腕を揺すられたがいまいち感覚がない。
「俺………行ってきます」
 悠のいる部屋を見た。もし先輩だったとして、悠も連れていくべきか? 怪我の程度が軽度だったらいいけれど、そうじゃなかったとしたら。身元の確認というぐらいだから、先輩の意識がない可能性が高い。
「俺、確認に行ってくるんで、その間悠をお願いしたいんですけど大丈夫っすか?」
「ええ、もちろんよ。任せてちょうだい」
「よろしくお願いします」
 部屋に戻ってしゃがむと悠の目線の高さになった。俺をまっすぐ見ている。
「ちょっと出かけてくる。その間、留守番できるか?」
 そう尋ねると、悠は不安そうにしながらもこくりと頷いた。
「うん。じゃあもし何かあったらあのお姉さんが一階の入り口の所にいるから。遠慮なく言うんだぞ」
「うん……」
 うなずきながらも悠はじっと俺を見ている。
「大丈夫、すぐ帰ってくるよ。俺も、お母さんも」
 悠の頭を撫でて立ち上がった。


 タクシーを使って連絡のあった救急病院へ行くと、案内されたのは地下の霊安室だった。暗くひんやりとした空気の中、スーツ姿の男性が二人、それに病院関係者らしきマスクをした女性がひとり立っていた。その奥に白いなにかが見える。
「さきほど、息を引き取りました。確認をお願いします」
 奥へ進むと、髪の長い人が顔に白い布をかけられて横になっている。
 ドクン、ドクン、ドクン。
 心臓がさっきから耳元で鳴りっぱなしでうるさい。
 病院の担当者が白い布を取り除いた。おそるおそる顔をのぞき込んだ。
「うそ……だろ……っ」
 不安は的中してしまった。
 先輩が生気のない顔で眠っていた。もっと近づいて見ると、呼吸をしていない。
「だって、昨日は元気で俺に……」
 思わずその場に膝から崩れ落ちてしまった。
「えー花村さんでしたっけ? 仏さんとはどういうご関係で」
 黒いスーツに赤いネクタイを雑に身につけた刑事が手帳にメモをとろうとなぜか意気揚々と説明を求めてくる。なんで、こんな状況でそんな生き生きした顔するんだよ。
「どういうって……彼女は高校の先輩で、昨日久しぶりに再会して、実家と折り合いがつかないから、どこか泊まる先を教えてくれって頼まれて」
「つまり知人」
 あっさりとそうまとめらて、頭を殴られたような気分だ。いかに先輩と俺が薄っぺらい関係なのかを思い知らされた。
 けれど家族でもないのにここに来られただけで奇跡なんだ。下手すると先輩が亡くなったことさえ知らないでいたかもしれない。
「この仏さん、身分証を持っていなかったんで名前も自宅もわからなかったんですよ。もしご存知でしたら教えてください」
 先輩の名前と商店街の小西酒店が実家だと告げると、刑事が二人とも部屋を出ていこうとした。
「どうも、ご協力ありがとうございましたー」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 慌てて引き留めて、震えが止まらない手でスマホを握りしめた。
「彼女の息子がうちのホテルに泊まっているんです。まだ小学生の低学年で。……連れてくるべきでしょうか?」
「小学生の息子、ねえ? じゃ、まあ連れてきてください。自殺の可能性もあるんで最近の状況も聞きたいし」
 かあっと頭に血が昇り、思わず刑事の胸倉を掴んでいた。
「は? 自殺?そんなこと先輩がするわけない! だって、悠がいるのに……っ」
「いやあ。だって近くを通りすがった人の証言だと霧の中、彼女が横断歩道で立ち尽くしていたんだって言うからさ。じゃなきゃ僕ら刑事がわざわざ調べに来ないし」
 もうひとりの年配刑事が俺の肩を掴んで引き剥がした。そしてなぜか赤ネクタイの刑事の頭にげんこつを落とした。
「おい、足立。捜査状況を一般人にペラペラ喋るんじゃねえ! あと仏さんの関係者なんだ。ちったあ配慮しろ」
 そう言われて足立と呼ばれた刑事はへらへらと笑いながら「すいませんー」と頭を掻いた。渋い中年刑事はため息をつき、やがてこちらに向き直った。
「あくまで可能性の話だ。現場は雨や霧で見通しの悪い状態。証言が確かかもわからないし、車が走ってきているのに単純に気づかなかったっていう可能性もある。あまり気にしないでくれ」
「はい……」
 肩を軽くたたかれて、おかげで少しだけ冷静になれた。
 ホテルに連絡して、悠をホテルの従業員に連れてきてもらうことにした。悠たちを待っている間に中年刑事から先輩の最近の状況を聞かれた。
 刑事に説明するのに大して時間はかからなかった。まだ昨日先輩と再会したばかりなんだ。話すことなんてそれ程あるわけじゃない。それが先輩の人生が、そして俺と先輩との関係が大したことのないもののように思えてしまって、なんだかやるせなかった。
「仏さんは疲れている様子だった?」
「……それはまあ。色々あったって言ってましたし。だけど、先輩、これから家族のところと仕事探しに行くって言ってたし、ちゃんと先のことまで考えていたと思います」
 そうは言ったが自信はない。先輩の気持ちは先輩本人にしかわからない。本当はひとりで子どもを抱えて、仕事を失って、自分の親にも拒絶され、絶望に苦しんでいたのかもしれない。
「お子さんが到着しました」
「悠……」
 悠がそっと部屋をのぞき込んで入ってきた。白い布がかかった遺体を見て、びくっと肩を震わせた。
「見なくていい」
 そう止めたが、悠は俺の声など聞こえない様子で遺体に近寄った。
「見なくていいって!」
 悠の肩に手をかけたが、遅かった。真っ白な顔をした先輩を見て、悠は表情を失くした。
「見るな!」
 悠を抱き寄せたが、強い力で振り払われた。
 そのまま先輩のもとへ戻り、遺体をゆさゆさと揺さぶった。
「おかあ、さん……どうしたの。……ねえ、起きて」
「悠……っ」
 悠をもう一回抱き寄せた。ぎゅっと抱きしめたまま、抑えきれない涙が頬を流れ落ちた。
「お母さんは……天国に、行ったんだ………っ」
 そう答えるのが精一杯だった。
 悠は先輩を見つめたまま身動きひとつしなかった。やがて、振り返って俺が泣いているのを見、警察の人たちが哀れみの視線を向けているのを見、やがてなにかを悟ったように目を丸くした。
「おかあさん……死んじゃったの?」
 その問いに誰も答えることはできなかった。ただただ悠を抱きしめた。


 やがて先輩のご両親が到着した。
 彼女の遺体を見ると、ショックを受けた母親はみるみる顔面蒼白になり、膝を折って泣き崩れた。
「早紀……っ」
「か、勝手に男と出ていって、戻ってきたと思ったら、こんな、なんで……ばかやろう!」
 父親は何度も何度も先輩を罵っていた。そうでもしなければ娘の死を受け入れることなどできないのだろう。俺にはなにも言えなかった。
 ただ、悠のことはどうにかしなければ。
 悠と手を繋いで、そっと先輩の父親に声をかけた。
「あの、こんな時に失礼します。彼女の息子さんのことなんですが」
 父親はこちらを振り向きもしなかった。
「知るか、知るかッ!」
「娘さんを亡くされたばかりで辛いのはわかります。けど、悠にはもう頼る人があなた方しかいないんです!」
「知らねえよ!」
 父親は絞り出すようにそう憤り、肩をいからせて、母親の手を引っ張って出て行ってしまった。
「小西さん、お待ちください」
 刑事がふたりを追った。ドアの向こうで喧嘩腰の父親と宥めようとする刑事のやりとりが聞こえる。
 まだふたりには娘の死がショックで、頭の整理が追いつかないのかもしれない。もう少し時間を置かないと悠のことを受け入れるのは無理だろう。
 振り返ると、悠はどこを見ているかもわからないような顔で放心していた。
「大丈夫。ちゃんとするから、心配するな」
 そう声をかけ、手を繋いだが、悠の反応はなかった。


 遺体が霊安室から先輩の実家に移ることになり、俺たちは警察署に移動して、事情をいちから説明した。まだ小さな悠には母親が亡くなっただけで辛いのに、話をさせるのは酷だった。できるだけ傍について、俺が知っていることを補足して話しながら、できるだけ時間を短縮してもらった。
 その時に悠の父親を探してもらうようお願いしたが、連絡先はわからず、先輩の携帯電話のアドレスに入っていた電話番号もやはり通じなかったようだった。
 少なくとも父親がすぐには頼れる状態ではないことは明らかだ。やはり先輩の実家のご両親を説得するのが一番の近道のようだ。弁護士とか児童相談所や市役所にも相談する方が良いのかもしれない。
 ホテルの支配人に連絡して、悠をしばらくうちで預かることを伝え、今日はそのまま帰らせてもらうことを了承してもらった。
「悠。とりあえずうちに一緒に帰ろう」
 手を引くと、知らない大人を警戒していた悠も、今日はさすがに大人しくついてきてくれた。
外はとっぷりと暮れていた。
 食欲はなかった。もしひとりだったら面倒でカップラーメンでもすすっていただろう。けれど悠には何か温かくて栄養のあるものを食べさせたい。そう思って冷蔵庫をのぞいたが、昨日の残りの白飯とハム、あとは玉子くらいしかない。
「……よし」
 子どもが喜びそうなものといったらオムライスだよな。作ったことはないけど、まあそんなに難しくはないだろう。そう思ってフライパンに玉子を割って、フライパンで火を通しながらグチャグチャとかきまぜた。火力が強かったのかすぐに裏面が焦げ始める。慌ててフライ返しでひっくり返すと穴が空いてしまった。
「あー、やっちまった……」
 電子レンジで温めたご飯にケチャップを混ぜて、失敗したオムレツ……っていうか破れた玉子焼きを乗せる。最後にケチャップでニコちゃんマークを描いた……つもりがなんだか微妙に眠そうな顔になってしまった。
「……悠、オムライスができたぜ」
 じっと体育座りをしている悠に呼びかけた。いつもの俺の座椅子に座らせて、目の前にオムライスを置いた。
 悠は不満げに俺を見た。
「……お母さんはもっとじょうずだった。たまごがふんわりしてた」
「……悪かったな、下手で。いいからとにかく食えよ」
 悠はスプーンですくってもぐもぐと咀嚼して食べた。
「からが入ってザリザリしてる。お母さんのは、もっとトロっとしてて、甘くてすっごくおいしくて……」
 そう言いながら、ぽろっとひと粒、目から涙をこぼした。
「おかあさ……」
 悠はスプーンを落とし、わあっと泣き出した。
 それを見て、悲しくて、苦しくて、俺も泣き出した。
「おかあさ……おかあさ、あ、ああああああ」
「……っ、先輩……っ」
 先輩のちょっと疲れたような横顔が思い出されて、悠の大事なお母さんが居なくなったことが悲しくて、胸がやぶれそうな程痛い。
 これからも先輩にはもう会えないんだと思うと涙が止まらなくなった。
 俺たちはひと晩中、涙を流し続けた。しがみついてきた悠を抱きしめて、服が鼻水で濡れても構わず、ただただ泣き続けた。


 先輩がいないまま夜は更ける。先輩がいなくても朝はやってくる。悠とはなるべく一緒に過ごした。俺の仕事がある日はホテルのふとん部屋を借りて、そこで悠に過ごしてもらい、できるだけ顔を出し、声をかけた。
 寝る時はふとんがひとつしかないから、悠の手を握って一緒に眠った。
 俺の下手くそな野菜炒めやサラダ、卵焼きを悠はそれ以来文句も言わず黙って食べるようになった。


 先輩の葬儀は週末に先輩の自宅でひっそりと行われた。外は雨がしとしとと降っている。
 棺桶に横たわる先輩の遺体に白い百合を添えた。先輩が成仏できるように。そして悠のことは俺が最後まで面倒を見ますからと心に中で先輩に誓った。
「悠……」
 悠に花を持たせ、背中を押して促すと、悠はぐっと歯を噛みしめた顔で花を添えた。
「お母さん……」
 悠は泣かなかった。先輩の遺体に向かって何か小さな声で呟いたが、何を言ったかはわからなかった。
 親族で花を供え終わると、棺桶に釘が打たれた。出棺するのを見送ると、悠を火葬場に連れていくかどうか迷った。あんまり先輩の死に触れさせてショックを与えたくない。
 だけどちゃんと見送って気持ちの整理をさせた方がいいのかもしれない。
 しゃがみこんで悠に尋ねた。
「悠。この後、お母さんの棺が燃えて、本当の本当に天国へ旅立つんだ。一緒に見送りに行くか?」
 こんなこと、小さな子どもに聞くなんて酷なことをしていると思う。だけど小さくても自分の母親のことなんだ。悠に悔いを残してほしくなかった。
 すると、悠はふるふると首を横に振った。
「そっか。じゃあ帰ろうか」
 そう言って、手を繋いだ時だった。ふと視線を感じてそちらを見ると、喪服を着た俺と同い年くらいの男がこちらを見ていた。
「あ……」
 先輩と面差しがそっくりだった。もしかして先輩が「尚紀」と言っていた弟だろうか。そういえば高校の時も小西先輩と話した時に弟のことが話題にあがっていたような気がする。
 こちらの視線に気がついて、ふいっと向こうを向いて出て行ってしまった。
 未だに先輩の両親とはまともに話せていない。母親はずっと泣きっぱなしだし、父親は怒りをにじませている。これから悠のことをどうすればいいのか。
 もしかしたらこのままいくと悠は孤児のための施設に行くことになるかもしれない。色々調べてみて、感情の整理がつかない彼らに預けるよりも、施設の方が悠も落ち着くかもしれないと思い始めていた。だけどそれで本当にいいんだろうか。
「どうも」
 声をかけられて、振り返ると、喪服を着た中年の男性が目の前に立っていた。
「わたしは早紀の父親の兄だ。この子をずっと預かってもらって助かった」
 そう言って悠の手を「さあ」と引こうとした。悠は俺の後ろに隠れた。
「あの、悠をどうするんですか……?」
「親族一同で話し合って、児童施設へ連れていくことにしたよ」
「は……どうして……?」
 淡々と彼は述べた。
「あの様子を見てればわかるだろう? 弟夫婦は娘の死を受け入れるので精一杯だ」
 先輩の伯父は冷たい眼差しで悠を見下ろした。
「私たちも知らない子どもをいきなり育てるなんてねえ。早紀の旦那もどこ行ったんだか」
 その言葉と同時に悠と繋いでいた手がぎゅっと強く握られたのを感じた。
「さあ、わたし達と行こう。施設には連絡してあるから」
 そう行って、彼が悠の手を無理矢理引っ張ろうとした。
「ちょっと待ってください。そんな、無責任だ」
 すると彼は「はあ?」とあからさまな侮蔑の表情を浮かべた。
「無責任? だったらあんたはこの子を育てられるのか?成人するまで経済的にも生活面でもちゃんと見られるのかね? 子どもをひとり育てるってのは簡単なことじゃないんだよ」
 ふつふつと怒りが湧いてきた。そんなこと、わかっている。いや、わかってないかもしれないけど、どうだっていい。
 誰も悠のことを見ていない。見ず知らずの子どもだと思っている。悠自身の繊細なところも、お母さん想いなところも全然知らない。そのことが悔しかった。すごくいい子なんだってことをみんなに知ってほしかった。
 悠を見た。悠はおびえていた。彼に手を引かれることも、知らない施設に連れて行かれることも。そして引っ張られても、ぎゅっと俺の手を掴んだまま放さなかった。
「お兄ちゃん……」
 悠がじっと俺を見上げてきた。それが悠からの合図だと思った。
 悠に俺が言ったのだ。『困った時はいつでも俺を頼れ』って。悠が俺を頼ったんだ。
 それで肚が決まった。
 悠を抱き寄せ、まっすぐに彼を見据えて宣言した。
「育てますよ。悠は俺が育てます」


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