【主丸】恋愛カタルシス 準備号
2020/05/05(Tue)10:14
スパコミ関西が延期になったため、エアブ―参加です。
!ストーリー・コープ・三学期以降ネタバレ注意!
前回の「嘘つきロリポップ」(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12392925)の続きのつもりで書きました。
前回の話を再編集し、今回の話とその続きの話を書いて、8月スパコミ関西にて新刊として出す予定です。よろしくお願いします。主丸好きさんがもっと増えてくれると嬉しい!
◆P5R HERO(暁 透流)×丸喜 拓人◆
◆ストーリー・コープ・三学期以降ネタバレ注意!!◆
◆R18描写はありませんが、今後そうなっていく予定です◆
以上がよろしければ続きリンクからお進みください
◆◆
クーラーがきいていても、東京の夏は湿度が高くて汗ばむ。ふと見ると、厚手のカーテンから光が差し込んでいる。
「もう朝か…」
明日は予定が無いから、いくらでも徹夜して論文をまとめられる。そう思って没頭しているうちに、気がついたら朝になっていた。
秀尽学園は夏休みに入った。夏休み中は個人的に受けているカウンセリングが週に数回あるだけなので、つい時間を忘れて研究に没頭してしまう。
クーラーを停めて、カーテンを開け、窓から外の空気を入れた。朝なのにじっとりとした空気がたまらない。今日も暑くなりそうだ。
「んーっ」
凝り固まった身体をほぐそうと伸びをして、朝ごはんの前にシャワーでも浴びてさっぱりするかと考えていたら、棚の上で充電しっぱなしのスマートフォンが点滅していた。メッセージが届いているようだ。
「暁君からだ」
思わず顔がほころぶ。
彼からこの前「好き」だと告白された。絆されてしまって、思わずOKしてしまった。まったくこんな無精ひげの中年のどこが良いのだろうか。
それ以来、時折彼からメッセージが届くようになった。それは他愛のない内容が多い。朝ご飯のカレーが美味しかったとか、マスターから珈琲を教わったこととか、彼の飼い猫・モルガナ君の写真とともに、この座り方についてどう思うかとか。
今日はいったいどんな内容だろう。ワクワクしながらデスクチェアに座り直し、メッセージアプリを起動した。
『明日の夜は空いてますか? デートしたいです』
思わず背もたれからひっくり返りそうになった。
「デ、デートかあ。直球だなあ」
見ると、メッセージは昨日の夜に届いていたようだ。つまり、今日の夜の予定について尋ねられているのだ。となると、できるだけ早く返事した方が良い。
さて、どう返事しようか。
「僕は楽しいから構わないけど、君はきっと傷つくんじゃないのかな」
この研究が完成するために、文字通り僕はすべてを捧げるつもりだ。そんな僕に呆れて、君は去ってしまうんじゃないだろうか。
「…考えても仕方ない、か…」
今できることをすれば良い。今、この時間を幸福とすることもきっと彼にとっては必要なことなのだ。高校生ながら前科者などとレッテルを貼られ、不遇な立場に置かれている。少しでも彼が幸せを感じてくれるなら、自分にできることはなんだってしたい。
それにまだこの研究には実証性が足りない。あとひとつ完成させるためのピースが足りないのだ。他の部分はだいぶ仕上がっているけれど、どうしてもそこで行き詰まってしまう。
たまには気分転換をはかるのも必要なことかもしれない。
「返事が遅くなってごめんね。いいよ。どこに行きたい?」
音声認識でそう返信すると、返信している途中なのかメッセージアプリが点滅して反応している。
「どう返信しようか迷っているのかな」
しばらくした後に返事がきた。
『池袋のプラネタリウムとかどうですか』
たったひと言のために思案してくれたのだと思うとつい、口元が綻んでしまう。
「うん。じゃあ今日の夜、池袋の駅前に待ち合わせでどうかな」
すぐに「了解」と返事が返ってきた。
「楽しみだな」
家を出る時間やそのための支度を考えていると、ふとサボテンの鉢植えが目に入った。この前のカウンセリングの時間に彼がプレゼントしてくれたものだ。
『これを見つけた時、貴方の顔が浮かんだので』
ハートの形をしたサボテンは鮮やかなグリーンをしている。研究の合間、これを見ていると何だかほっこりした。
「痛っ」
針に気をつけてそっと触れたつもりだったけど、思い切り指を刺してしまった。
「まったく、うまくいかないなあ…」
思わず呟いた。
駅前に到着すると、すでに彼が立っていた。腕時計を見たが、まだ待ち合わせ時間より結構前だ。
「ごめんね、待たせちゃったかな?」
スマートフォンに視線を落としていた彼が僕に気がついてふっと嬉しそうに頬を緩めた。
「いいえ、俺も今着いたばかりです」
「そっか。それなら良かった」
白いシャツを肘のあたりまで巻き上げて、中に黒いTシャツを着ている。青いデニムや革靴も年季が入ってそうで、こだわりがありそうだ。
僕は服にこだわりがないからブランドとかよくわからないけど、私服姿の彼はちょっと新鮮でドキッとする。
すると彼は猫のようなぱっちりした目で僕を見た。
「先生、髭…剃って?」
近づいてきて、僕の顎を指でさすってくる。
「うん。さすがにデートで無精髭もないかなと思って」
人が行き来する場所で彼と会うのだ。彼に見合うとまではいかなくても、最低限清潔感のある格好を心がけてきたつもりだ。
「白衣じゃなくてジャケット姿も新鮮で格好良い。俺のためにって思って良いんですか?」
「うん。これでも俺の一張羅だよ」
「嬉しいです」
かすかに頬を上気させる彼が愛おしい。
彼は目の前に立つと、僕の肩口に顔を擦りつけてきた。告白された時もそうだった。彼の感情が高まった時にするクセのようなものだろうか。猫に懐かれたみたいでちょっと気分が良い。
そのくるんとした髪からシャンプーの良いにおいがした。さっきシャワーを浴びてきたばかりなんだろう。そう気がついて、彼がシャワーを浴びている姿を想像してしまう。慌てて思考を遮った。
「ま、まだ上映まで時間があるし、どうしようか? 軽くご飯を食べておく?」
「はい、同じビルに飲食店がいくつかあって…」
彼が隣に立って、自分のスマートフォンを見せてくれる。こんな風に耳元で喋るような関係になるのは久しぶりだなあと不意に思う。
「聞いている?」
ちょっと拗ねたように唇をとがらせている様はいつもより年相応に感じる。
「ごめんね。君と本当に付き合っているんだなあって実感してたんだ」
そう伝えると、彼は頬を染めた。
「…あんまり可愛いこと言うと、キスしますよ」
「え……、えっ?」
「冗談です。こんな人の多いところではしませんよ」
つまり、人が多くないところではするんだろうか。その思考を遮るように、彼が僕の手を引っ張った。
「やっぱり実際にレストラン街に行って決めましょう」
「あ、うん」
僕が彼に追いつこうと横に並ぶと、自然と手を繋いで歩く形になった。
社会の仕組みは変わりつつあるけれど、まだ同性のカップルに対しては抵抗感のある人たちも多い。時折チラチラとこちらを見ている人たちがいる。
しかし彼は楽しそうに口元に笑みを浮かべて僕を見ていて、周りのことを気にする様子もない。自分の思うままにしなやかに生きている。彼の生き様は見ていて美しいと思う。チリ、と胸の中で何かが焼ける音がした。
手を繋いだまま、街を歩き、僕らは商業複合ビルの中へと入っていった。
先にプラネタリウムの鑑賞チケットを購入しておいてから、レストラン街へとやって来た。
レストラン街には様々な店が並んでいる。中華、和食、洋食、カレーやデザートの店もある。その中でショーケースの中の天丼のサンプルに目を奪われてしまう。
なかなか良いお値段だ。だけどこれはきっと美味しいに違いない。
「天丼が好き?」
結構な時間見ていたんだろう。彼が僕の様子をじっと見ていた。
「うん。…けど給料前でこのお値段はちょっと手が出ないから、他のにしようかな」
思わずため息をついたら彼が言った。
「今日は俺が支払いますよ。デートに誘ったのは俺ですし」
「いや、年下の君に奢られるのは気が引けるよ」
「丸喜が好きなものを食べる姿を俺が見たいんです」
力説されて、それが奢る建て前だけには見えなくて、思わず息を吐いて笑った。
「それじゃあ今回は甘えさせてもらおうかな。今度、給料が入った時にお返しするね」
「はい。楽しみにしています」
彼の笑顔にほっこりとしてしまう。彼は笑顔で取り繕ったりしない。本当に笑いたい時にしか笑わない。だからこそこの笑顔を見た人を幸せな気持ちにしてくれる。そう思って、ますます彼の相手が僕で良いのかと思ってしまう。
彼も同じ天丼を注文して、近況について話し合った。彼は最近祐介君と双葉ちゃんという新たな友人ができたそうで、ゲームしに来たり、DVDを一緒に見たりと毎日夏休みを満喫しているそうだ。
「あ、来ましたね」
ふたり分の天丼を店員さんが持ってきてくれて、良い匂いがただよってくる。
「いただきます」
割りばしを持って、手を合わせているところを見ると、暁君は育ちの良い少年だなと思う。
「うわあ、美味しそうだなあ。いただきます」
僕も手を合わせ、温かいうちに戴いた。ご飯粒までつゆが染みていて、エビ天もプリっと身がしっかり入っていて、本当に美味しい。熱々で舌が火傷しそうだけど、箸が止まらない。
つい喋るのを忘れて、米粒の最後のひと粒まで心ゆくまで味わった。
「うーん、美味しかったあ」
「丸喜、メガネが曇っている」
そう声をかけられて、正面からメガネを両手で抜きとられる。メガネがないからぼんやりとしか見えないけれど、彼が取り出したメガネ拭きで拭いてくれているのがわかる。
「メガネを取るとけっこう雰囲気変わるな」
「そうかい?」
彼がメガネをかけ直してくれた。手の指が少し肌に触れて、長くて綺麗な指だなあとつい見入ってしまう。
改めて彼の方を見ると、彼の天丼はまだ半分くらい残っていることに気がついた。
「あれ、食が進んでないね。もしかして好みじゃなかった?」
「いえ、そうじゃないんですけど…」
彼が何か言いたそうな顔でこちらを見ている。少し顔が赤い。彼の言葉を待っていると、なぜか言いにくそうに口を開いた。
「…丸喜があんまり幸せそうに食べているので、ちょっと見とれてました」
「あ……あはは…そっか…うん…」
なぜだか彼の照れがこちらに伝染したみたいに、僕まで恥ずかしくなってきた。うん、これは紛う事なきデートだ。
「丸喜とこうしてデートできて、何だか胸がいっぱいで。今日はちょっと味がわかりません…」
そう言いながら腕を組んだまま顔を俯かせる彼にキュンと胸が高鳴ってしまう。彼に誘われる形で来たデートだったけど、やっぱり来て良かったなと思う。
「嬉しいな。告白された時も嬉しかったけど、君が僕のことを好きだっていうのが伝わってきて、すごく嬉しいよ」
そう言うと、彼は天丼に顔を突っ込みそうな程俯いている。その肩がぷるぷると震えている。
「貴方に俺のことを好きになってもらいたいのに…俺ばっかりどんどん好きになって困る…」
「これ以上好きになったら、どうなっちゃうのかな?」
楽しくなって、悪戯に訊ねると、彼は真っ赤に染めた顔をこちらに向けた。その瞳が熱っぽい。
「貴方をメチャクチャにします」
声のトーンを落とし、唸るような低い声で言われて、それが冗談には聞こえなくて、思わず身を引いた。
彼の想像の中では僕がいったいどうなっているんだろう。聞きたいような聞きたくないような。
「ごめん…ちょっとからかいすぎちゃったかも」
謝ると、彼は水を飲んで、息を吐いて心を落ち着かせようとしている。
「…貴方は俺の心をかき乱す天才ですね」
「それは光栄だなあ」
「褒めてません」
思わず笑ってしまうと、彼も眉尻を下げて笑ってくれた。ふたりを包むこの空気が愛おしい。いつまでも続けば良いのにと願ってしまう。
食事を終えて、ビルの屋上にあるプラネタリウムへと移動した。中に入ると良い香りがする。森林のような優しい香りだ。
「なんだか良い香りがするね」
「ええ。この回はヒーリングプラネタリウムって言って、アロマが焚かれているんです」
「なるほど。視覚だけじゃなくて臭覚にも刺激を与えるんだね」
これは自分の研究にも通じるかもしれない。認知世界を現実のように知覚するには視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚のすべてが必要だ。よりリアルに感じられた方が、脳が目の前のものを現実のものだと知覚できる。
そう思考にふけっていたら、「そこ、階段ありますよ」と彼に手を引かれて誘導された。いつの間にか手を繋ぐことが当たり前に感じている自分がいた。
ふたり並んで席に座った。
すると座席が斜め上に自然と傾いた。上を見るのが楽な作りになっているようだ。
「へえ。何だかワクワクするなあ」
「そうですね。俺もヒーリングの回は初めてです」
「ん? 誰かと来たことある?」
もしかして誰かとデートで来たんだろうか。慣れた様子だったので聞いてみると、彼は虚ろな瞳で頷いた。聞けば同じクラスの三島君と来たことがあるのだという。
プラネタリウムに怪しげな人がいるという噂を聞いて調査しに来た。が、それは友人の喜多川君だったというオチを聞いて、思わず噴き出してしまった。
「へえ、喜多川君は画家なんだ」
「面白いヤツですよ。今度、丸喜にも紹介したいです」
照明が落ちて真っ暗になり、やがて上映が始まった。広大な宇宙が目の前に広がっていて、穏やかな声でナレーションが入り、星たちの物語へと吸い込まれていく。
気がついたら彼と手を繋いでいた。隣を見ると、真っ暗だったけどぼんやりと彼の顔が見えた。まっすぐに空を眺めていた。
不思議な子だな。僕の研究の話を笑わずに耳を傾けてくれる。彼に言えないことは多い。彼もきっと言えないことはいっぱいあるだろう。僕なんかより魅力的な子がまわりにいっぱいいるのに、何で僕なんかを好きになったんだろう。
あえて言ってなかったことを打ち明けたら君はどんな顔をするだろう。軽蔑するだろうか。怒るだろうか。もし嫌いになった、もう好きじゃないって言われたら、僕はきっとすごく悲しいだろうな。想像するだけで胸が痛んだ。
上映が終わると、余韻に浸ったままなかなか席を立つことができない。
「はー…すごかったね。僕の子ども時代のプラネタリウムとは全然違ったよ」
心地よい香りに包まれて、最新の映像技術を駆使した星空を堪能することができた。ナレーションも説明口調ではなく、物語を語るようなやさしい口調だからどんどん星の世界に引き込まれていった。
「あのナレーションの声、君にちょっと似ていて、ドキッとしちゃった」
そういうと、彼は目を丸くして、不意に視線を反らした。耳がちょっと赤い。
「またそういう…。だいたい丸喜はちょっと寝てただろう。ナレーションの声が途切れたあたりで」
「あはは。バレちゃった? ごめんね。ちょっと寝不足だったから」
謝ると、彼は顔を横に振った。
「研究で根を詰めてるんじゃないかって思っていたし、どうせならアロマの香りの中で眠ったらリフレッシュできるんじゃないかって誘ったから。構わない」
そう言われて、彼の優しさにジンと胸がしびれた。
いつも本当に、彼の飾らない優しさに救われている。今はもう、ただの取引相手だとは思えない。
「ありがとう。僕のこと考えてくれて嬉しいよ。ごめんね。僕、自分の研究に没頭してばっかりで、君にばかり色々と気を遣わせてしまっていて」
彼は睫毛を伏せて微笑んだ。
「そういうところも丸喜らしいと思う。それに俺が逢いたかったんだから、気にしなくて良い」
本当に彼は人に気を遣わせない天才だなあ。そうやってたくさんの人の心を救い上げてきたのかもしれない。
「いつか…色んなことが落ち着いたら、丸喜と本物の星空を見に行きたい」
彼の眼差しはあたたかい。
けれど彼の言葉に無責任に頷くことはできなくて、ただぼんやりとした笑顔を向けることしかできなかった。
そろそろ次の回の上映時間が始まってしまうので、名残惜しいけど席を立った。
腕時計を見ると、もう九時だ。
「そろそろ帰らないとだね」
エスカレーターを降りると、そろそろ営業時間が終わりの店が出始めている。
彼は無言のまま外を見ている。高いところから見る街の灯りはどこか寂しげに見える。
駅前まで何となく会話もなく、黙ったままふたりで肩を並べて歩いた。
彼はさっきのように手を繋いでこようとはしてこない。何か考えている様子で、そっと自分の方から手を繋いでみた。びっくりしたように彼が僕を見た。振り返ってくれたことが、反応してくれたことがなぜか震えるくらい愛おしい。
「そんなに僕から手を繋ぐことが不思議かな?」
彼はふるりと首を振った。
「いや。…ただ、丸喜は俺に合わせて付き合ってくれているのかなって思っていたから…」
素直な言葉を聞かせてくれて、なるほどと頷いた。
「あ、今のは肯定の意味じゃなくてね。君の言葉を受け止めたって意味だよ」
そうして、自分のありのままの気持ちを伝えた。
「もしかしたら最初は君に付き合って始めた交際かもしれない。けどね、今は君と一緒にいるととても楽しくて、君から来るメッセージがいつも楽しみで、君の気持ちがすごく嬉しいなって感じているんだ。一緒にいたらもっと好きになるかもしれない」
こんな気分になるのはいつぶりだろうか。留美の時もそう思っていたかな。あまりに辛いことがあって、もうよく思い出せない。
「丸喜…」
「さあ。そろそろ帰らないと。ちょっと名残惜しいし、せめて君の家まで送らせてほしいな」
今日は君にエスコートしてもらって天丼まで奢ってもらっちゃったからね。そうさせてほしい。そう重ねて伝えると彼は頷いた。そして繋いでいた手を一瞬離し、指を僕の指の間に滑らせるようにしてしっかりと繋ぎ直してきた。
恋人繋ぎというんだろうか。そうされると、よけいに彼と距離が近くなる。肩と肩が触れ合って、なぜだか彼が「めちゃくちゃにする」と言っていた時の顔を急に思い出してしまった。
彼は電車の中でも前を向いたまま、無言だった。今は不思議とその無言が怖くない。肩を並べているこの空気をいつまでも味わっていたいと感じていた。
四軒茶屋に着いて少し歩くと、彼の居候先のカフェの前にすぐ着いた。もう着いてしまった。まだもうちょっと他愛ない話をしていたい。喋らなくても良いから傍に寄り添っていたい。
「この辺の街並み、なんだかほっとするね」
名残惜しくて手を繋いだまま、そんな風に話しかける。ずっと無言だった彼がじっと僕の顔を見た。
「俺の部屋に寄って行きませんか? コーヒーを淹れます」
「君が淹れてくれるのかい?」
こくりと頷く。その緊張した面持ちに、コーヒーだけでは済まないという空気が出ている。一応僕も男だから、それがどういう誘いなのかはわかっているつもりだ。
さて、なんて返事をしたものか。
「このまま誘いを受けたら僕、君に、めちゃくちゃにされちゃうのかな?」
冗談っぽく言ったつもりだった。けれど、彼はかあっと顔を赤くして、よけいに緊張した顔つきになった。
「嫌がることはしません。……できるだけ」
できるだけ、という素直な言葉に思わず噴き出してしまう。
「ぶはっ。 ご、ごめん。笑うつもりはなくて。でも君があんまり素直だから……つい…っ」
「丸喜は人のこと笑いすぎだと思う」
赤い顔で睨まれても可愛いとしか思えない。ひとしきり笑っていたら、少し肩の力が抜けた。僕までつられて緊張していたのかもしれない。
思いきって彼に抱きついてみた。彼が息をのんだのが伝わってくる。
「君といると癒されるなあ」
「…それは俺もです。丸喜といると嬉しくて、癒されて、もっと、ずっと一緒にいたくなる」
そう言って、彼も僕の背中を大事そうに抱きしめてくれた。トクントクンと速い鼓動が伝わってきて心地良い。
「僕のこと、抱きたいと思っている?」
しばらくすると「…はい」と切羽詰まったような声が聞こえてくる。
「キスして、抱いて、もっと貴方がどんな顔をするのか、知りたい…」
独り言のように呟く声が耳に心地よい。
「良いよ。君の好きにしてほしい」
男の僕なんか抱いて、気持ちよくなれるのかわからないけど。そう付け足すと、なぜだか彼は顔を上げ、複雑そうな表情を見せた。
「………気が変わりました」
ぱっと肩を押されて、身体を離されてしまった。心なしかメガネの奥が怒っているように見える。
「え?……ええっ?」
テキパキとした動きで背中を押され、今度は四軒茶屋駅へと僕が送られることとなった。
さっきまでの甘い空気はどこに行ったんだろう。彼は無表情のまま俺に切符の値段を聞いてくる。思わず答えると、彼はその値段の切符を券売機で購入し、僕に手渡してくる。
「ちょっと待って。僕、何か気に障るようなこと言った?」
「自分の頭で考えてください」
冷たい声でそう告げて、彼は切符を改札機に通してしまった。押されるまま改札を通ってしまう。
「おやすみなさい」
そう、ひと言だけ告げると、背を向けて本当に帰ってしまった。それを追うこともできず、僕は立ち尽くした。
「え…ええ…?」
彼は猫みたいに気まぐれだ。
なんて言ったらきっと彼は怒るんだろう。何か理由があって怒った(怒ったのかどうかもわからない)はずだ。
だけど急に態度が変わってしまった理由が僕にはまったく思い浮かばなくて、本当に途方にくれた。
「おっ、帰ってきたな。 今日は好きな子とデートだったんだろ? 首尾はどうだったんだ?」
ルブランの店内に入ると、モルガナがカウンターチェアから降りて出迎えてくれた。
「食事の好みもわかったし、喜んでくれたし、最後まで楽しかった」
「おお、良かったじゃねえか」
自分のことのように喜んでくれるモルガナに思わずワシャワシャと手で背中の毛を撫でた。一瞬気持ち良さそうな声を上げ、その直後、「猫じゃねえ!」と毛が逆立った。が、俺の様子に気がついて顔を上げた。
「んだよ。そのわりに浮かねー顔してんじゃねえか」
「……自分のことは置き去りなんだよ。あの人」
最初に好きだから付き合ってほしいって告白した時にも引っかかった言葉だった。「好きにしてほしい」という言葉には誘惑しているような響きもあってグッとくるけれど、同時に悲しみがこみ上げてくる。
自分のことは大事にしていないような、価値がないようなそういう言葉を使われると、じゃあ丸喜を好きな自分は何だろうという悲しいような、悔しいような気持ちになるのだ。
「どうしたら自分のことを大切にしてくれるのかな」
「そんなの、簡単だろ」
あっさりそう答えるモルガナの両手、いや両前足を掴んだ。
「教えてくれ、モルガナ師匠」
懇願すると、モルガナは鼻を高くして答えた。
「そりゃあお前がその人のこと大切にすれば良いんだよ。見本を見せてやるんだよ」
「なるほど」
モルガナの視点はいつも冴えている。俺が気がつかないことに気がつかせてくれる。
「さすが俺の相棒」
「にゃっふー、それほどでもあるけどな!」
モルガナと一緒に階段を上がって、自分の部屋へと移動する。シャツを脱いで、ふと匂いを嗅ぐ。電車の中でついたタバコやアルコールの匂いの他に、まだ抱きしめた時の丸喜の清潔感あるやさしい匂いが残っているような気がする。 どうしてこんなに丸喜に惹かれるのか自分でもわからない。ただ、目が離せなくなる。その声に耳を澄ましてしまう。自分を見ているようで見ていないその瞳に自分を映したいと思う。
「いや、何してるんだよ、オマエ」
ベッドに寝転がって、しばらくその匂いに浸っていたら、ジト目のモルガナと目が合ってしまった。それを見なかった振りをして、しばらくその残り香をデートの思い出とともに堪能した。
抱きたいと思う。自分の胸いっぱいに満ちたこの想いを彼に全身で伝えたい。だけど今はまだその時じゃない気がする。まだ丸喜は自分に合わせてムリをしてくれている感じがする。
もっと彼に自分のことを好きになってほしい。本当に丸喜と心が通じ合った時、丸喜が自分から欲してくれた時に身体を重ねたい。
それにもっと彼の考えていることや、研究に没頭する理由を知りたいと思う。こちらが怪盗団だと告げられないように、彼にもまた言えないことがあるのかもしれない。
ふとプラネタリウムの上演が終わった後の丸喜を思い出した。彼に一緒に本物の星を見に行きたいと言った時、ほんの少し悲しそうな顔で微笑んでいた。どこかにひとりで遠くに行ってしまいそうな、そんな淡い笑顔だった。
あの笑顔を本物の、心からの笑顔にしたい。丸喜の心に憂いがあるなら取り除きたい。心からそう願った。
[newpage]
空を見上げたが、建物の内部だし、そもそもここには夜がない。
認知世界に来てからめまいを感じている。
今思えば、時々感じていた酷い頭痛は留美の認知を変える能力を使っていた時から始まった。知らず知らずのうちに僕はペルソナに目覚め、その能力を使っていたのだ。
『主よ。無理をするな。と言ってもきくような性質ではないとわかっているが』
「アザトース。心配してくれてありがとう」
背中に寄りかかってアザトースを見上げる。深淵を現わしたような異形をしていたけれど、初めて見た時も不思議と怖くはなかった。
彼は自身がもうひとりの自分、反逆の意思の魂だと教えてくれた。彼は僕をずっと見守ってくれていた。自分の言葉にならない悲しみ、怒り、それらを全て理解してくれる半身の存在は心強く、僕に勇気を与えてくれた。
「でもね、やっと僕の研究を世の中の人のために役立てることができているんだ。今は寝る間だって惜しいよ」
アザトースは自らの触手で僕の視界を遮った。
『我は汝。なればこそ、己が限界を知っているのも我だ。いずれ悲願は世界を飲みこむだろう。だが主が倒れればその成就は叶わなくなる』
「はは…君の言う通りだね…。うん。少し休むよ」
アザトースに寄りかかり、目を瞑った。
アザトースの導きで初めて『研究所』に来られた時から興奮で眠れなかった。認知世界にまだ馴染めないのか頭は痛いし、クラクラとするけれど、やっと自分の研究の成果を発揮できる時が来たんだ。休んでなんていられない。ここに来てからどれくらい経ったのか、時間の感覚も失っている。
今まで「助けて」と声を上げられずに苦しんで来た人たちを救ってあげたい。そのために自分の『研究所』と人々の集合的無意識の世界を繋いだ。
それにより、怪盗団が世界を救ったこと、そして人々の願いを具現化した『聖杯』を受け取る権利が怪盗団から僕に譲渡されたことを知ることができた。
その力のおかげで怪盗団がこれまでやってきたことや認知世界で起きたことも具体的に知ることができた。
明智君と彼らとのやりとりも確認した。獅童と結託してやってきた罪は重い。けれど、彼と親交を深めてきた暁君の気持ちを思うと、彼を救済してあげたいと思った。そうすることで罪を償う機会も与えられるだろう。
認知世界に来て、まずは自分がカウンセリングしてきた渋谷周辺の人々の認知を書き換えた。怪盗団もその中に含まれている。もし彼がその世界を認めてくれていれば、彼の前歴は消えて、元の学校にも戻らず、怪盗団の仲間たちと楽しく過ごせるはずだった。
けれど、どういうわけか彼はそれを無意識下で拒んだ。今まで歪んだ大人たちに抑圧を受け、傷ついてきたから、大人の与えるものを簡単には受け入れられないという彼の抵抗もわかる。
だけど説得する余地はあるはずだ。いずれ認知を書き換えた人たちが幸せに過ごすのを目にするはずだ。そしてこのパレスを見てもらえばわかるはずだ。僕がどんな思いでここまでやってきたか。
「いつか、僕のことも『改心』させるのかな」
何となく、彼は此処にやってくる、そんな予感がした。
僕のやっていることも君は間違っていると言うのだろうか。想像すると胸が痛む。誰に否定されたとしても構わない。ただ君にだけは否定してもらいたくない。
できれば彼とは戦いたくはない。彼らが悪人の欲望を盗むことで認知を変えて改心させるのと、僕が悲しんでいる人たちの認知を変えて幸せに導くのは表裏一体のようなものだ。根底にあるものは変わらないはずだ。だからできればこのまま僕の創る世界を受け入れてほしい。
このまま人々の認知を書き換えていけば、世の中がどんどん良くなっていくと感じてくれるはずだ。
「あ……」
『来たな』
胸が妙にざわめいた。誰かがこの『研究所』に入ってきたのを感じる。ゆっくりと瞼を開いた。
暁君がついに来た。
『迎え撃つか』
「その必要はないよ。彼らはきっと、自分の足でここまで来る」
今まで彼らが改心してきた様子を視てきた。どんな絶望的な状況でも彼らは希望を失わず、自分の意思で立ち上がってきた。
たとえ僕を守ろうとしてくれる認知存在の人々が立ちはだかっても、彼らは強い意志で立ち向かい、ここまでやってくるだろう。その強さを心から称賛する。だけど弱い人はどうする。僕がその人たちの力になりたいんだ。
「わかってくれよ…」
僕の悲しみも、僕がここまで情熱を注いできた理由も君にだけは理解してほしい。その上でどうするのが最善かを君自身に判断してほしい。
その上でもし目の前に彼が僕の欲望の核となるモノを奪おうとするのなら、僕たちは戦うしかないのだろう。傷つけるのは本意ではないけれど、僕にも意地がある。誰も傷つかない、優しい世界を完成させるんだ。
!ストーリー・コープ・三学期以降ネタバレ注意!
前回の「嘘つきロリポップ」(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12392925)の続きのつもりで書きました。
前回の話を再編集し、今回の話とその続きの話を書いて、8月スパコミ関西にて新刊として出す予定です。よろしくお願いします。主丸好きさんがもっと増えてくれると嬉しい!
◆P5R HERO(暁 透流)×丸喜 拓人◆
◆ストーリー・コープ・三学期以降ネタバレ注意!!◆
◆R18描写はありませんが、今後そうなっていく予定です◆
以上がよろしければ続きリンクからお進みください
◆◆
クーラーがきいていても、東京の夏は湿度が高くて汗ばむ。ふと見ると、厚手のカーテンから光が差し込んでいる。
「もう朝か…」
明日は予定が無いから、いくらでも徹夜して論文をまとめられる。そう思って没頭しているうちに、気がついたら朝になっていた。
秀尽学園は夏休みに入った。夏休み中は個人的に受けているカウンセリングが週に数回あるだけなので、つい時間を忘れて研究に没頭してしまう。
クーラーを停めて、カーテンを開け、窓から外の空気を入れた。朝なのにじっとりとした空気がたまらない。今日も暑くなりそうだ。
「んーっ」
凝り固まった身体をほぐそうと伸びをして、朝ごはんの前にシャワーでも浴びてさっぱりするかと考えていたら、棚の上で充電しっぱなしのスマートフォンが点滅していた。メッセージが届いているようだ。
「暁君からだ」
思わず顔がほころぶ。
彼からこの前「好き」だと告白された。絆されてしまって、思わずOKしてしまった。まったくこんな無精ひげの中年のどこが良いのだろうか。
それ以来、時折彼からメッセージが届くようになった。それは他愛のない内容が多い。朝ご飯のカレーが美味しかったとか、マスターから珈琲を教わったこととか、彼の飼い猫・モルガナ君の写真とともに、この座り方についてどう思うかとか。
今日はいったいどんな内容だろう。ワクワクしながらデスクチェアに座り直し、メッセージアプリを起動した。
『明日の夜は空いてますか? デートしたいです』
思わず背もたれからひっくり返りそうになった。
「デ、デートかあ。直球だなあ」
見ると、メッセージは昨日の夜に届いていたようだ。つまり、今日の夜の予定について尋ねられているのだ。となると、できるだけ早く返事した方が良い。
さて、どう返事しようか。
「僕は楽しいから構わないけど、君はきっと傷つくんじゃないのかな」
この研究が完成するために、文字通り僕はすべてを捧げるつもりだ。そんな僕に呆れて、君は去ってしまうんじゃないだろうか。
「…考えても仕方ない、か…」
今できることをすれば良い。今、この時間を幸福とすることもきっと彼にとっては必要なことなのだ。高校生ながら前科者などとレッテルを貼られ、不遇な立場に置かれている。少しでも彼が幸せを感じてくれるなら、自分にできることはなんだってしたい。
それにまだこの研究には実証性が足りない。あとひとつ完成させるためのピースが足りないのだ。他の部分はだいぶ仕上がっているけれど、どうしてもそこで行き詰まってしまう。
たまには気分転換をはかるのも必要なことかもしれない。
「返事が遅くなってごめんね。いいよ。どこに行きたい?」
音声認識でそう返信すると、返信している途中なのかメッセージアプリが点滅して反応している。
「どう返信しようか迷っているのかな」
しばらくした後に返事がきた。
『池袋のプラネタリウムとかどうですか』
たったひと言のために思案してくれたのだと思うとつい、口元が綻んでしまう。
「うん。じゃあ今日の夜、池袋の駅前に待ち合わせでどうかな」
すぐに「了解」と返事が返ってきた。
「楽しみだな」
家を出る時間やそのための支度を考えていると、ふとサボテンの鉢植えが目に入った。この前のカウンセリングの時間に彼がプレゼントしてくれたものだ。
『これを見つけた時、貴方の顔が浮かんだので』
ハートの形をしたサボテンは鮮やかなグリーンをしている。研究の合間、これを見ていると何だかほっこりした。
「痛っ」
針に気をつけてそっと触れたつもりだったけど、思い切り指を刺してしまった。
「まったく、うまくいかないなあ…」
思わず呟いた。
駅前に到着すると、すでに彼が立っていた。腕時計を見たが、まだ待ち合わせ時間より結構前だ。
「ごめんね、待たせちゃったかな?」
スマートフォンに視線を落としていた彼が僕に気がついてふっと嬉しそうに頬を緩めた。
「いいえ、俺も今着いたばかりです」
「そっか。それなら良かった」
白いシャツを肘のあたりまで巻き上げて、中に黒いTシャツを着ている。青いデニムや革靴も年季が入ってそうで、こだわりがありそうだ。
僕は服にこだわりがないからブランドとかよくわからないけど、私服姿の彼はちょっと新鮮でドキッとする。
すると彼は猫のようなぱっちりした目で僕を見た。
「先生、髭…剃って?」
近づいてきて、僕の顎を指でさすってくる。
「うん。さすがにデートで無精髭もないかなと思って」
人が行き来する場所で彼と会うのだ。彼に見合うとまではいかなくても、最低限清潔感のある格好を心がけてきたつもりだ。
「白衣じゃなくてジャケット姿も新鮮で格好良い。俺のためにって思って良いんですか?」
「うん。これでも俺の一張羅だよ」
「嬉しいです」
かすかに頬を上気させる彼が愛おしい。
彼は目の前に立つと、僕の肩口に顔を擦りつけてきた。告白された時もそうだった。彼の感情が高まった時にするクセのようなものだろうか。猫に懐かれたみたいでちょっと気分が良い。
そのくるんとした髪からシャンプーの良いにおいがした。さっきシャワーを浴びてきたばかりなんだろう。そう気がついて、彼がシャワーを浴びている姿を想像してしまう。慌てて思考を遮った。
「ま、まだ上映まで時間があるし、どうしようか? 軽くご飯を食べておく?」
「はい、同じビルに飲食店がいくつかあって…」
彼が隣に立って、自分のスマートフォンを見せてくれる。こんな風に耳元で喋るような関係になるのは久しぶりだなあと不意に思う。
「聞いている?」
ちょっと拗ねたように唇をとがらせている様はいつもより年相応に感じる。
「ごめんね。君と本当に付き合っているんだなあって実感してたんだ」
そう伝えると、彼は頬を染めた。
「…あんまり可愛いこと言うと、キスしますよ」
「え……、えっ?」
「冗談です。こんな人の多いところではしませんよ」
つまり、人が多くないところではするんだろうか。その思考を遮るように、彼が僕の手を引っ張った。
「やっぱり実際にレストラン街に行って決めましょう」
「あ、うん」
僕が彼に追いつこうと横に並ぶと、自然と手を繋いで歩く形になった。
社会の仕組みは変わりつつあるけれど、まだ同性のカップルに対しては抵抗感のある人たちも多い。時折チラチラとこちらを見ている人たちがいる。
しかし彼は楽しそうに口元に笑みを浮かべて僕を見ていて、周りのことを気にする様子もない。自分の思うままにしなやかに生きている。彼の生き様は見ていて美しいと思う。チリ、と胸の中で何かが焼ける音がした。
手を繋いだまま、街を歩き、僕らは商業複合ビルの中へと入っていった。
先にプラネタリウムの鑑賞チケットを購入しておいてから、レストラン街へとやって来た。
レストラン街には様々な店が並んでいる。中華、和食、洋食、カレーやデザートの店もある。その中でショーケースの中の天丼のサンプルに目を奪われてしまう。
なかなか良いお値段だ。だけどこれはきっと美味しいに違いない。
「天丼が好き?」
結構な時間見ていたんだろう。彼が僕の様子をじっと見ていた。
「うん。…けど給料前でこのお値段はちょっと手が出ないから、他のにしようかな」
思わずため息をついたら彼が言った。
「今日は俺が支払いますよ。デートに誘ったのは俺ですし」
「いや、年下の君に奢られるのは気が引けるよ」
「丸喜が好きなものを食べる姿を俺が見たいんです」
力説されて、それが奢る建て前だけには見えなくて、思わず息を吐いて笑った。
「それじゃあ今回は甘えさせてもらおうかな。今度、給料が入った時にお返しするね」
「はい。楽しみにしています」
彼の笑顔にほっこりとしてしまう。彼は笑顔で取り繕ったりしない。本当に笑いたい時にしか笑わない。だからこそこの笑顔を見た人を幸せな気持ちにしてくれる。そう思って、ますます彼の相手が僕で良いのかと思ってしまう。
彼も同じ天丼を注文して、近況について話し合った。彼は最近祐介君と双葉ちゃんという新たな友人ができたそうで、ゲームしに来たり、DVDを一緒に見たりと毎日夏休みを満喫しているそうだ。
「あ、来ましたね」
ふたり分の天丼を店員さんが持ってきてくれて、良い匂いがただよってくる。
「いただきます」
割りばしを持って、手を合わせているところを見ると、暁君は育ちの良い少年だなと思う。
「うわあ、美味しそうだなあ。いただきます」
僕も手を合わせ、温かいうちに戴いた。ご飯粒までつゆが染みていて、エビ天もプリっと身がしっかり入っていて、本当に美味しい。熱々で舌が火傷しそうだけど、箸が止まらない。
つい喋るのを忘れて、米粒の最後のひと粒まで心ゆくまで味わった。
「うーん、美味しかったあ」
「丸喜、メガネが曇っている」
そう声をかけられて、正面からメガネを両手で抜きとられる。メガネがないからぼんやりとしか見えないけれど、彼が取り出したメガネ拭きで拭いてくれているのがわかる。
「メガネを取るとけっこう雰囲気変わるな」
「そうかい?」
彼がメガネをかけ直してくれた。手の指が少し肌に触れて、長くて綺麗な指だなあとつい見入ってしまう。
改めて彼の方を見ると、彼の天丼はまだ半分くらい残っていることに気がついた。
「あれ、食が進んでないね。もしかして好みじゃなかった?」
「いえ、そうじゃないんですけど…」
彼が何か言いたそうな顔でこちらを見ている。少し顔が赤い。彼の言葉を待っていると、なぜか言いにくそうに口を開いた。
「…丸喜があんまり幸せそうに食べているので、ちょっと見とれてました」
「あ……あはは…そっか…うん…」
なぜだか彼の照れがこちらに伝染したみたいに、僕まで恥ずかしくなってきた。うん、これは紛う事なきデートだ。
「丸喜とこうしてデートできて、何だか胸がいっぱいで。今日はちょっと味がわかりません…」
そう言いながら腕を組んだまま顔を俯かせる彼にキュンと胸が高鳴ってしまう。彼に誘われる形で来たデートだったけど、やっぱり来て良かったなと思う。
「嬉しいな。告白された時も嬉しかったけど、君が僕のことを好きだっていうのが伝わってきて、すごく嬉しいよ」
そう言うと、彼は天丼に顔を突っ込みそうな程俯いている。その肩がぷるぷると震えている。
「貴方に俺のことを好きになってもらいたいのに…俺ばっかりどんどん好きになって困る…」
「これ以上好きになったら、どうなっちゃうのかな?」
楽しくなって、悪戯に訊ねると、彼は真っ赤に染めた顔をこちらに向けた。その瞳が熱っぽい。
「貴方をメチャクチャにします」
声のトーンを落とし、唸るような低い声で言われて、それが冗談には聞こえなくて、思わず身を引いた。
彼の想像の中では僕がいったいどうなっているんだろう。聞きたいような聞きたくないような。
「ごめん…ちょっとからかいすぎちゃったかも」
謝ると、彼は水を飲んで、息を吐いて心を落ち着かせようとしている。
「…貴方は俺の心をかき乱す天才ですね」
「それは光栄だなあ」
「褒めてません」
思わず笑ってしまうと、彼も眉尻を下げて笑ってくれた。ふたりを包むこの空気が愛おしい。いつまでも続けば良いのにと願ってしまう。
食事を終えて、ビルの屋上にあるプラネタリウムへと移動した。中に入ると良い香りがする。森林のような優しい香りだ。
「なんだか良い香りがするね」
「ええ。この回はヒーリングプラネタリウムって言って、アロマが焚かれているんです」
「なるほど。視覚だけじゃなくて臭覚にも刺激を与えるんだね」
これは自分の研究にも通じるかもしれない。認知世界を現実のように知覚するには視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚のすべてが必要だ。よりリアルに感じられた方が、脳が目の前のものを現実のものだと知覚できる。
そう思考にふけっていたら、「そこ、階段ありますよ」と彼に手を引かれて誘導された。いつの間にか手を繋ぐことが当たり前に感じている自分がいた。
ふたり並んで席に座った。
すると座席が斜め上に自然と傾いた。上を見るのが楽な作りになっているようだ。
「へえ。何だかワクワクするなあ」
「そうですね。俺もヒーリングの回は初めてです」
「ん? 誰かと来たことある?」
もしかして誰かとデートで来たんだろうか。慣れた様子だったので聞いてみると、彼は虚ろな瞳で頷いた。聞けば同じクラスの三島君と来たことがあるのだという。
プラネタリウムに怪しげな人がいるという噂を聞いて調査しに来た。が、それは友人の喜多川君だったというオチを聞いて、思わず噴き出してしまった。
「へえ、喜多川君は画家なんだ」
「面白いヤツですよ。今度、丸喜にも紹介したいです」
照明が落ちて真っ暗になり、やがて上映が始まった。広大な宇宙が目の前に広がっていて、穏やかな声でナレーションが入り、星たちの物語へと吸い込まれていく。
気がついたら彼と手を繋いでいた。隣を見ると、真っ暗だったけどぼんやりと彼の顔が見えた。まっすぐに空を眺めていた。
不思議な子だな。僕の研究の話を笑わずに耳を傾けてくれる。彼に言えないことは多い。彼もきっと言えないことはいっぱいあるだろう。僕なんかより魅力的な子がまわりにいっぱいいるのに、何で僕なんかを好きになったんだろう。
あえて言ってなかったことを打ち明けたら君はどんな顔をするだろう。軽蔑するだろうか。怒るだろうか。もし嫌いになった、もう好きじゃないって言われたら、僕はきっとすごく悲しいだろうな。想像するだけで胸が痛んだ。
上映が終わると、余韻に浸ったままなかなか席を立つことができない。
「はー…すごかったね。僕の子ども時代のプラネタリウムとは全然違ったよ」
心地よい香りに包まれて、最新の映像技術を駆使した星空を堪能することができた。ナレーションも説明口調ではなく、物語を語るようなやさしい口調だからどんどん星の世界に引き込まれていった。
「あのナレーションの声、君にちょっと似ていて、ドキッとしちゃった」
そういうと、彼は目を丸くして、不意に視線を反らした。耳がちょっと赤い。
「またそういう…。だいたい丸喜はちょっと寝てただろう。ナレーションの声が途切れたあたりで」
「あはは。バレちゃった? ごめんね。ちょっと寝不足だったから」
謝ると、彼は顔を横に振った。
「研究で根を詰めてるんじゃないかって思っていたし、どうせならアロマの香りの中で眠ったらリフレッシュできるんじゃないかって誘ったから。構わない」
そう言われて、彼の優しさにジンと胸がしびれた。
いつも本当に、彼の飾らない優しさに救われている。今はもう、ただの取引相手だとは思えない。
「ありがとう。僕のこと考えてくれて嬉しいよ。ごめんね。僕、自分の研究に没頭してばっかりで、君にばかり色々と気を遣わせてしまっていて」
彼は睫毛を伏せて微笑んだ。
「そういうところも丸喜らしいと思う。それに俺が逢いたかったんだから、気にしなくて良い」
本当に彼は人に気を遣わせない天才だなあ。そうやってたくさんの人の心を救い上げてきたのかもしれない。
「いつか…色んなことが落ち着いたら、丸喜と本物の星空を見に行きたい」
彼の眼差しはあたたかい。
けれど彼の言葉に無責任に頷くことはできなくて、ただぼんやりとした笑顔を向けることしかできなかった。
そろそろ次の回の上映時間が始まってしまうので、名残惜しいけど席を立った。
腕時計を見ると、もう九時だ。
「そろそろ帰らないとだね」
エスカレーターを降りると、そろそろ営業時間が終わりの店が出始めている。
彼は無言のまま外を見ている。高いところから見る街の灯りはどこか寂しげに見える。
駅前まで何となく会話もなく、黙ったままふたりで肩を並べて歩いた。
彼はさっきのように手を繋いでこようとはしてこない。何か考えている様子で、そっと自分の方から手を繋いでみた。びっくりしたように彼が僕を見た。振り返ってくれたことが、反応してくれたことがなぜか震えるくらい愛おしい。
「そんなに僕から手を繋ぐことが不思議かな?」
彼はふるりと首を振った。
「いや。…ただ、丸喜は俺に合わせて付き合ってくれているのかなって思っていたから…」
素直な言葉を聞かせてくれて、なるほどと頷いた。
「あ、今のは肯定の意味じゃなくてね。君の言葉を受け止めたって意味だよ」
そうして、自分のありのままの気持ちを伝えた。
「もしかしたら最初は君に付き合って始めた交際かもしれない。けどね、今は君と一緒にいるととても楽しくて、君から来るメッセージがいつも楽しみで、君の気持ちがすごく嬉しいなって感じているんだ。一緒にいたらもっと好きになるかもしれない」
こんな気分になるのはいつぶりだろうか。留美の時もそう思っていたかな。あまりに辛いことがあって、もうよく思い出せない。
「丸喜…」
「さあ。そろそろ帰らないと。ちょっと名残惜しいし、せめて君の家まで送らせてほしいな」
今日は君にエスコートしてもらって天丼まで奢ってもらっちゃったからね。そうさせてほしい。そう重ねて伝えると彼は頷いた。そして繋いでいた手を一瞬離し、指を僕の指の間に滑らせるようにしてしっかりと繋ぎ直してきた。
恋人繋ぎというんだろうか。そうされると、よけいに彼と距離が近くなる。肩と肩が触れ合って、なぜだか彼が「めちゃくちゃにする」と言っていた時の顔を急に思い出してしまった。
彼は電車の中でも前を向いたまま、無言だった。今は不思議とその無言が怖くない。肩を並べているこの空気をいつまでも味わっていたいと感じていた。
四軒茶屋に着いて少し歩くと、彼の居候先のカフェの前にすぐ着いた。もう着いてしまった。まだもうちょっと他愛ない話をしていたい。喋らなくても良いから傍に寄り添っていたい。
「この辺の街並み、なんだかほっとするね」
名残惜しくて手を繋いだまま、そんな風に話しかける。ずっと無言だった彼がじっと僕の顔を見た。
「俺の部屋に寄って行きませんか? コーヒーを淹れます」
「君が淹れてくれるのかい?」
こくりと頷く。その緊張した面持ちに、コーヒーだけでは済まないという空気が出ている。一応僕も男だから、それがどういう誘いなのかはわかっているつもりだ。
さて、なんて返事をしたものか。
「このまま誘いを受けたら僕、君に、めちゃくちゃにされちゃうのかな?」
冗談っぽく言ったつもりだった。けれど、彼はかあっと顔を赤くして、よけいに緊張した顔つきになった。
「嫌がることはしません。……できるだけ」
できるだけ、という素直な言葉に思わず噴き出してしまう。
「ぶはっ。 ご、ごめん。笑うつもりはなくて。でも君があんまり素直だから……つい…っ」
「丸喜は人のこと笑いすぎだと思う」
赤い顔で睨まれても可愛いとしか思えない。ひとしきり笑っていたら、少し肩の力が抜けた。僕までつられて緊張していたのかもしれない。
思いきって彼に抱きついてみた。彼が息をのんだのが伝わってくる。
「君といると癒されるなあ」
「…それは俺もです。丸喜といると嬉しくて、癒されて、もっと、ずっと一緒にいたくなる」
そう言って、彼も僕の背中を大事そうに抱きしめてくれた。トクントクンと速い鼓動が伝わってきて心地良い。
「僕のこと、抱きたいと思っている?」
しばらくすると「…はい」と切羽詰まったような声が聞こえてくる。
「キスして、抱いて、もっと貴方がどんな顔をするのか、知りたい…」
独り言のように呟く声が耳に心地よい。
「良いよ。君の好きにしてほしい」
男の僕なんか抱いて、気持ちよくなれるのかわからないけど。そう付け足すと、なぜだか彼は顔を上げ、複雑そうな表情を見せた。
「………気が変わりました」
ぱっと肩を押されて、身体を離されてしまった。心なしかメガネの奥が怒っているように見える。
「え?……ええっ?」
テキパキとした動きで背中を押され、今度は四軒茶屋駅へと僕が送られることとなった。
さっきまでの甘い空気はどこに行ったんだろう。彼は無表情のまま俺に切符の値段を聞いてくる。思わず答えると、彼はその値段の切符を券売機で購入し、僕に手渡してくる。
「ちょっと待って。僕、何か気に障るようなこと言った?」
「自分の頭で考えてください」
冷たい声でそう告げて、彼は切符を改札機に通してしまった。押されるまま改札を通ってしまう。
「おやすみなさい」
そう、ひと言だけ告げると、背を向けて本当に帰ってしまった。それを追うこともできず、僕は立ち尽くした。
「え…ええ…?」
彼は猫みたいに気まぐれだ。
なんて言ったらきっと彼は怒るんだろう。何か理由があって怒った(怒ったのかどうかもわからない)はずだ。
だけど急に態度が変わってしまった理由が僕にはまったく思い浮かばなくて、本当に途方にくれた。
「おっ、帰ってきたな。 今日は好きな子とデートだったんだろ? 首尾はどうだったんだ?」
ルブランの店内に入ると、モルガナがカウンターチェアから降りて出迎えてくれた。
「食事の好みもわかったし、喜んでくれたし、最後まで楽しかった」
「おお、良かったじゃねえか」
自分のことのように喜んでくれるモルガナに思わずワシャワシャと手で背中の毛を撫でた。一瞬気持ち良さそうな声を上げ、その直後、「猫じゃねえ!」と毛が逆立った。が、俺の様子に気がついて顔を上げた。
「んだよ。そのわりに浮かねー顔してんじゃねえか」
「……自分のことは置き去りなんだよ。あの人」
最初に好きだから付き合ってほしいって告白した時にも引っかかった言葉だった。「好きにしてほしい」という言葉には誘惑しているような響きもあってグッとくるけれど、同時に悲しみがこみ上げてくる。
自分のことは大事にしていないような、価値がないようなそういう言葉を使われると、じゃあ丸喜を好きな自分は何だろうという悲しいような、悔しいような気持ちになるのだ。
「どうしたら自分のことを大切にしてくれるのかな」
「そんなの、簡単だろ」
あっさりそう答えるモルガナの両手、いや両前足を掴んだ。
「教えてくれ、モルガナ師匠」
懇願すると、モルガナは鼻を高くして答えた。
「そりゃあお前がその人のこと大切にすれば良いんだよ。見本を見せてやるんだよ」
「なるほど」
モルガナの視点はいつも冴えている。俺が気がつかないことに気がつかせてくれる。
「さすが俺の相棒」
「にゃっふー、それほどでもあるけどな!」
モルガナと一緒に階段を上がって、自分の部屋へと移動する。シャツを脱いで、ふと匂いを嗅ぐ。電車の中でついたタバコやアルコールの匂いの他に、まだ抱きしめた時の丸喜の清潔感あるやさしい匂いが残っているような気がする。 どうしてこんなに丸喜に惹かれるのか自分でもわからない。ただ、目が離せなくなる。その声に耳を澄ましてしまう。自分を見ているようで見ていないその瞳に自分を映したいと思う。
「いや、何してるんだよ、オマエ」
ベッドに寝転がって、しばらくその匂いに浸っていたら、ジト目のモルガナと目が合ってしまった。それを見なかった振りをして、しばらくその残り香をデートの思い出とともに堪能した。
抱きたいと思う。自分の胸いっぱいに満ちたこの想いを彼に全身で伝えたい。だけど今はまだその時じゃない気がする。まだ丸喜は自分に合わせてムリをしてくれている感じがする。
もっと彼に自分のことを好きになってほしい。本当に丸喜と心が通じ合った時、丸喜が自分から欲してくれた時に身体を重ねたい。
それにもっと彼の考えていることや、研究に没頭する理由を知りたいと思う。こちらが怪盗団だと告げられないように、彼にもまた言えないことがあるのかもしれない。
ふとプラネタリウムの上演が終わった後の丸喜を思い出した。彼に一緒に本物の星を見に行きたいと言った時、ほんの少し悲しそうな顔で微笑んでいた。どこかにひとりで遠くに行ってしまいそうな、そんな淡い笑顔だった。
あの笑顔を本物の、心からの笑顔にしたい。丸喜の心に憂いがあるなら取り除きたい。心からそう願った。
[newpage]
空を見上げたが、建物の内部だし、そもそもここには夜がない。
認知世界に来てからめまいを感じている。
今思えば、時々感じていた酷い頭痛は留美の認知を変える能力を使っていた時から始まった。知らず知らずのうちに僕はペルソナに目覚め、その能力を使っていたのだ。
『主よ。無理をするな。と言ってもきくような性質ではないとわかっているが』
「アザトース。心配してくれてありがとう」
背中に寄りかかってアザトースを見上げる。深淵を現わしたような異形をしていたけれど、初めて見た時も不思議と怖くはなかった。
彼は自身がもうひとりの自分、反逆の意思の魂だと教えてくれた。彼は僕をずっと見守ってくれていた。自分の言葉にならない悲しみ、怒り、それらを全て理解してくれる半身の存在は心強く、僕に勇気を与えてくれた。
「でもね、やっと僕の研究を世の中の人のために役立てることができているんだ。今は寝る間だって惜しいよ」
アザトースは自らの触手で僕の視界を遮った。
『我は汝。なればこそ、己が限界を知っているのも我だ。いずれ悲願は世界を飲みこむだろう。だが主が倒れればその成就は叶わなくなる』
「はは…君の言う通りだね…。うん。少し休むよ」
アザトースに寄りかかり、目を瞑った。
アザトースの導きで初めて『研究所』に来られた時から興奮で眠れなかった。認知世界にまだ馴染めないのか頭は痛いし、クラクラとするけれど、やっと自分の研究の成果を発揮できる時が来たんだ。休んでなんていられない。ここに来てからどれくらい経ったのか、時間の感覚も失っている。
今まで「助けて」と声を上げられずに苦しんで来た人たちを救ってあげたい。そのために自分の『研究所』と人々の集合的無意識の世界を繋いだ。
それにより、怪盗団が世界を救ったこと、そして人々の願いを具現化した『聖杯』を受け取る権利が怪盗団から僕に譲渡されたことを知ることができた。
その力のおかげで怪盗団がこれまでやってきたことや認知世界で起きたことも具体的に知ることができた。
明智君と彼らとのやりとりも確認した。獅童と結託してやってきた罪は重い。けれど、彼と親交を深めてきた暁君の気持ちを思うと、彼を救済してあげたいと思った。そうすることで罪を償う機会も与えられるだろう。
認知世界に来て、まずは自分がカウンセリングしてきた渋谷周辺の人々の認知を書き換えた。怪盗団もその中に含まれている。もし彼がその世界を認めてくれていれば、彼の前歴は消えて、元の学校にも戻らず、怪盗団の仲間たちと楽しく過ごせるはずだった。
けれど、どういうわけか彼はそれを無意識下で拒んだ。今まで歪んだ大人たちに抑圧を受け、傷ついてきたから、大人の与えるものを簡単には受け入れられないという彼の抵抗もわかる。
だけど説得する余地はあるはずだ。いずれ認知を書き換えた人たちが幸せに過ごすのを目にするはずだ。そしてこのパレスを見てもらえばわかるはずだ。僕がどんな思いでここまでやってきたか。
「いつか、僕のことも『改心』させるのかな」
何となく、彼は此処にやってくる、そんな予感がした。
僕のやっていることも君は間違っていると言うのだろうか。想像すると胸が痛む。誰に否定されたとしても構わない。ただ君にだけは否定してもらいたくない。
できれば彼とは戦いたくはない。彼らが悪人の欲望を盗むことで認知を変えて改心させるのと、僕が悲しんでいる人たちの認知を変えて幸せに導くのは表裏一体のようなものだ。根底にあるものは変わらないはずだ。だからできればこのまま僕の創る世界を受け入れてほしい。
このまま人々の認知を書き換えていけば、世の中がどんどん良くなっていくと感じてくれるはずだ。
「あ……」
『来たな』
胸が妙にざわめいた。誰かがこの『研究所』に入ってきたのを感じる。ゆっくりと瞼を開いた。
暁君がついに来た。
『迎え撃つか』
「その必要はないよ。彼らはきっと、自分の足でここまで来る」
今まで彼らが改心してきた様子を視てきた。どんな絶望的な状況でも彼らは希望を失わず、自分の意思で立ち上がってきた。
たとえ僕を守ろうとしてくれる認知存在の人々が立ちはだかっても、彼らは強い意志で立ち向かい、ここまでやってくるだろう。その強さを心から称賛する。だけど弱い人はどうする。僕がその人たちの力になりたいんだ。
「わかってくれよ…」
僕の悲しみも、僕がここまで情熱を注いできた理由も君にだけは理解してほしい。その上でどうするのが最善かを君自身に判断してほしい。
その上でもし目の前に彼が僕の欲望の核となるモノを奪おうとするのなら、僕たちは戦うしかないのだろう。傷つけるのは本意ではないけれど、僕にも意地がある。誰も傷つかない、優しい世界を完成させるんだ。
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