家族ごっこ8
2019/06/05(Wed)18:34
家族ごっこ8更新です。
ペルソナやテレビの世界がなく、事件も起こらなかった八十稲羽の数年後のお話。主人公(鳴上悠)が小西先輩の息子という特殊設定です。
今回は悠とお父さんの話がメインです。
素敵な表紙イラストは茶絣ぶみさん(https://www.pixiv.net/member.php?id=1731387)に描いていただいています。毎回新しいイラストを描いてくださるのをわたしも励みに続きを書いているので、本当に頭が上がりません(五体投地)
本文はつづき↓からどうぞ。
お父さんはキゲンが良い時と悪い時がある。
キゲンが良い時は僕の作ったご飯を食べてくれる。
「誰もお前に別に作れなんて言ってないだろう」
大きな音を立ててイスに座って、そう言いながらも口にしてくれる。
お仕事をしているのか、タブレットをながめながら箸に手をつけている。
片手だと食べにくそうだから、今度スプーンで食べられるものか、おにぎりを作ってみようと思った。
物置きだったという部屋をもらったので、置いてある古い新聞や使ってないパソコンをすみっこに寄せて、勉強するスペースと寝るスペースを作った。
陽介と住んでいた時はいつも陽介が何かしている音が聞こえるのが当たり前だったのに、よく眠れた。だけどこの家では自分の部屋に入るととても静かで、なのになかなか眠れなかったし、何度も夜に目がさめた。
朝、起きると朝ご飯におにぎりとほうれん草のおみそ汁、それに卵焼きを作った。じょうずに焼けて、美味しくできたと思う。
台所には使っていなかったフライパンや鍋や食器がいくつもあった。使って良いか前に聞いたら「女が置いていったものだ。好きにしろ」って言われた。だからもらった食費でご飯を作るようになった。
お父さんはまだ寝ているのか、部屋から出てこないので、「食べてください」とメモを書いて、新しい学校へと行った。
新しい小学校はクラスがいっぱいあって、僕みたいに転校する子も多いらしい。僕がとちゅうから転校してきても誰も気にする子や話しかけてくる子もいなくて、何だか僕は空気みたいだった。八十稲羽とは何もかも違う。
帰りの時間になると、としょ室に行った。料理の本、猫のずかん、色々なおしごとについての本を読んだ。何となく帰りたくなくて、できるだけ遅くまでいて、下校時間になると、読みかけの本を借りてマンションに行った。
できるだけ音をたてないようにドアを開けた。部屋の奥からは行ったり来たりするような足音が聞こえてくる。「結局、昨日と同じか」とか、「また下落」とか、ひとりごとを言っている。
キッチンに行くと、おにぎりもみそ汁もそのままだった。
「あーーーーー、クソ!クソ!何でだ!」
いらだった声、机をたたきつけるような大きな音が何度も鳴った。びっくりして肩がゆれた。今日はお父さんのキゲンが悪い日みたいだ。なるべく静かにしていよう。
できるだけ音を立てないようにダメになったおにぎりを捨てて、鍋に入ったおみそ汁をシンクに流した。
「あっ」
お鍋が重くて、シンクに落としてしまい、大きな音が部屋中にひびいた。どうしよう、お父さんに聞こえちゃったかもしれない。胸がイヤな音を立てた。
水を止めると、ドアが開いて、お父さんが大きな足音を立ててやってきた。
「うるさい! 俺が仕事している時に音を立てるなって言っているのに、何でそんなこともできないんだ?」
「ご…ごめんなさい…僕…」
目の前から見下ろすように立たれて、僕はうまく言葉が出ない。チッという舌打ちといっしょに「これだからガキは嫌いなんだ」って言われて、ズキッと胸が痛くなった。
「俺の仕事は成功か失敗が分かれるデリケートさが求められるんだ。俺のおかげでメシが食えているのがわかっているのか?」
「は、い……」
お父さんを見ると、ギロリと怖い顔で睨まれた。
「何だその反抗的な目は? ああ?」
いきなりお父さんにほっぺたを手でたたかれた。目の前に星が飛んで、びっくりして声が出ない。勢いで倒れてしまい、起き上がることもできない。
「イライラさせるな。お前は俺の言うことだけ聞いていれば良いんだよ!」
声と同時に背中をけられて、声がうまく出せなくてヒュウヒュウと音ばかりが漏れた。
お父さんが苦しそうに息をしていて、見上げると、ぎゅっと自分の手を強くにぎっていた。頭を抱え、身体をちぢこまらせて「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と何度も同じことを呟いている。
しばらくすると、お父さんは早足で自分の部屋に戻って行った。
僕は何とか起き上がった。顔や背中は痛いけど、動けそうだ。だから夕飯のしたくをしはじめた。お父さんにスーパーで食材を買うためのお金をもらいたかったけど、声をかけるのが怖かった。
お風呂そうじをして、ちょっと待ってみたけど、お父さんは部屋から出てこなかった。
だからこの前買ってきたそうめんをちょっとだけゆでて、自分の分を作った。ネギも玉子もないから、めんつゆをお湯でうすめて、冷蔵庫に入っているのりをちぎってかけて食べた。
できるだけ音を立てないようにラグの上に座って温かいそうめんを食べた。
僕は何のために料理をしているんだっけ。何で料理を作る人になりたいって思ったんだっけ。僕が料理をしなくても誰もきっと困らない。何だか暗い気持ちになっていく。そのままどこまでも沈んでいきそうだ。
だから陽介といっしょにご飯を食べた時のことを思い出した。焦げちゃってまずくなっちゃった時は何だかおかしくてふたりで笑ったなあ。うまくできた時は陽介が食べながら「最っ高!」ってものすごくホメてくれて、お腹いっぱいご飯を食べて、おしゃべりして、本当に楽しかった。イヤなことがあった日でも、陽介といっぱいおしゃべりしてると、いつの間にかイヤなことを忘れちゃうんだ。
陽介と過ごした時間はキラキラと光る宝石がいっぱい詰まった箱みたいだ。
「よう、すけ…」
元気にしているかな。ちゃんとご飯を食べているかな。笑っているかな。陽介が笑ってくれたらすごくすごく嬉しい。だけどもし、僕のことを忘れて向こうで笑っているんだったら、なんかイヤだって思う自分もいる。陽介が幸せならそれで良いって思っていたのに、何でだろう。
陽介のことを思い出しながら食べるそうめんは、ちょっとだけしょっぱかった。
次の日、鏡を見たらお父さんに叩かれたほっぺたが腫れていた。
めずらしくお父さんが朝ご飯の時間にやってきた。
「あの、ごめんなさい。お父さん。ご飯を買うお金がなくて…朝ごはんをじゅんびできなくて」
そう言うと、手が僕の方へ伸びてきた。また叩かれるかもしれない。思わず目をつぶった。だけど、ほっぺたを手のひらでなでられたのだとわかって、びっくりして目を開けた。お父さんは昨日とは別の人みたいに優しい目をしていた。
お父さんに叩かれると思ってしまった自分が恥ずかしい。
「何だ、言ってくれたら良かったのに。これからはキッチンにお金を置いておくから自由に使いなさい。今日はふたりで朝ご飯を食べに行こう」
学校に行く支度も一緒にしておけよと言われて、着替えて準備をすると、お父さんが車でレストランに連れて行ってくれた。
「悠の好きなものを頼みなさい」
そう言われて、たくさんあるメニューの中から、なかなかえらべなくて、でもあんまり待たせるとお父さんがイライラしちゃうかもしれないから、キッズメニューの中から一番上をえらんだ。
お父さんが自分のとふたり分を注文してくれて、待っている間、どうしたら良いかわからなくて、窓の外の車が行ったり来たりするのをながめていた。
「昨日は悪かった、悠」
お父さんにそう声をかけられて、見上げた。穏やかな顔で笑っている。昨日のお父さんとは全然ちがう人みたいだ。
「昨日は仕事がうまくいかなくて、イライラしていたんだ」
あわてて首を振った。
「大丈夫、僕!」
「そうか」
そう、誰だってキゲンが悪い時はあるんだ。たまたまそれが昨夜だったってだけだ。
「だけどな、俺は暴力を振るっているんじゃなくて、教育をしているんだ。いいな、悠?」
「きょう…いく?」
お父さんはうなずいた。
「ああ、そうだ。愛情があるからこそお前を殴るんだ」
僕は殴られなくても、口で言ってくれたらちゃんと理解できるのに。そう言いたかった。だけど何か言うと、お父さんのまたキゲンが悪くなってしまうかもしれない。そう思うと何も言えなかった。
「お父さんも自分の父親にそうやって教育されて育ったんだ。父は自分のような完璧な人間になりなさいとよく言っていた。…俺はその期待には答えられなかったがな」
そう言って、お父さんはどこか遠くを見た。
カンペキな人ってどんな人だろう。べんきょうができて、運動もできる人かな?
「私はお前に完璧を求めたりしない。最低限当たり前のことができるよう教育するが、後はお前の好きにしたら良い。だけど、二人きりの家族なんだ。協力して生きていこうな?」
そう言われて、元々そのつもりだったから「うん」と頷いた。
「もし誰かに顔のアザを聞かれたら、転んだと言うんだぞ」
「え…?」
ウソをつかなきゃいけないんだろうか。すると、お父さんが僕の目を見て言った。
「もし俺がやったと疑われたらどうなると思う? またあの児童相談所の人間が来て、俺のところにいるのは不適当だなんだと言って、お前をあいつ……花村だったか? あの男の元に戻そうとするぞ。それでも良いのか?」
もし陽介のところに戻されたら、陽介はまたあのパソコンに書きこまれていたような言葉をたくさんの人に言われて、傷ついてしまうかもしれない。
あわてて首を横に振った。
「僕、誰にも言わないよ!」
ウソは良くないけど、陽介が困るのはぜったいに嫌だ。
うっすらとお父さんが笑った。
「ああ、それが良い」
それから注文した料理が届くとお父さんは何も言わず、窓の外を見てコーヒーを飲んだ。
朝ご飯を食べ終わると、お父さんに車で学校まで送ってもらった。
学校に行くと、担任の先生に、「ちょっと鳴上君。その顔、どうしたの?」と呼びとめられた。
「…何でもないです」
ウソはつきたくなくて、でもお父さんが言うみたいなことになったらイヤだったからそう答えた。
そうしたら、先生はむずかしそうな顔をして、「保健室に行きましょう」と僕の手を引いて、連れて行った。「本当に大丈夫です」と言っても、先生は聞いてくれなかった。
保健室に行くと、保健室の先生が冷たい布で冷やしてくれた。
「これ、自分の手で持って、しばらく冷やしておいてね」
そう言われて、頷いていると、保健室の奥で担任の先生と保健室の先生が話し合っている。声が小さくて、「児相から連絡が来た通り…」「…通報します」と所々しか聞こえない。
お父さんが言ったようにウソをついた方が良かったんだろうか。
「あの…僕、もう大丈夫です。教室に行きます」
保健室の先生に布を返しておじぎをして、保健室から逃げた。僕のことを心配してくれる先生たちに申し訳ないと思った。でも、もし陽介に迷惑をかけるようになってしまったら。それだけは絶対に嫌だ。
算数の時間が始まって、いつも通りに勉強した。
だけど、お昼休みになると、先生に「もう一度保健室に行きなさい」と言われて、何回も「もう大丈夫」と言ったけれど、手を引かれたまま、聞き入れてもらえなかった。
先生に連れていかれて保健室に行くと、この前マンションに来た佐藤さんがそこにいた。思わず逃げようとすると、担任の先生に捕まえられた。ドアの前で先生が立ちふさがっているから逃げられなくなってしまった。
「本当に何でもないんです」
「だったら何で逃げるんだい? 何もやましいことがないなら僕と話せるよね?」
言われた通りだから、逃げることもできなくなってしまった。
「悠君、おいで」
僕が立ったままでいると、佐藤さんが僕の目をじっと見たまま待っていた。
「悠君。僕はね、君のことを困らせたいわけじゃないんだ。ただ君が思っていること、感じていることをありのまま教えてほしいんだ。もしかしたら君の力になれるかもしれない」
もし佐藤さんに何か言ったら、お父さんの言う通り、陽介の元に戻されてしまうかもしれない。
「もしかして、お父さんに何か言われた?」
「…ちがいます」
お父さんに言われたからじゃない。ぼくが陽介を守りたいから。だから何も答えなかった。そうしたら、佐藤さんはなぜかふっと息を吐いて笑った。
「花村さんの言う通り、意思の固い子だね」
陽介の顔を思い出して、何だか急に胸がくるしくなった。陽介は僕のこと、何て言ったんだろう。
「花村さん。悠君のこと、色々話してくれたよ。料理が上手で、真面目で、こうと決めたことには頑固だって」
「………あの、陽介は元気ですか?」
そう尋ねると、佐藤さんの目つきがやわらかくなった。
「ちょっと元気がなさそうだった。あんまりご飯も食べてないみたい」
「え……」
「悠君と会えないのが、一緒に暮らせないことがこんなに辛いとは思わなかったって。そう言っていたよ」
そう言われて、泣きそうになった。陽介に会いたい。そう言いたくなるのをぐっとくちびるをかみしめてガマンした。
「花村さんのことが好き?」
そう聞かれて、素直に頷いた。
「じゃあどうして花村さんのところに帰りたくないのかな? お父さんと一緒に住んでいても、彼に会おうと思えば会える。なのに悠君は顔を会わせようとしなかった。何か理由があるんじゃない?」
陽介が色々言われているってことを言っても良いんだろうか。でも佐藤さんから、陽介にこのことが伝わったら、陽介はイヤな思いをするかもしれない。
「あの……陽介には言わないでください。ぜったいに」
「わかった。花村さんに言わないよ」
佐藤さんが僕の目を見て頷いてくれたから、ホッとして、ぼくの気持ちを打ち明けた。
「あの、お父さんに見せてもらったんです。陽介がパソコンで、色々悪口を言われているのを。僕が陽介と一緒にいると、陽介が悪く言われちゃうんです」
そう伝えると、佐藤さんが小さく口を開けて、僕を見た。
「…花村さんを守りたいから、お父さんの所に行った?」
「はい」
頷くと、佐藤さんがなぜだか顔をくしゃっとゆがめた。
「そうか。悠君……君は強いんだね」
「僕、陽介にいっぱいもらったから。陽介がいなかったら今の僕はいないから」
お母さんが死んじゃって、僕はとほうにくれた。これからどうすれば良いのか、全然わからなかった。その時、陽介だけが僕の目を見てくれた。陽介だけが僕の手をつかんでくれた。
陽介と家族になって、いっぱいあたたかい気持ちをくれた。やさしいモノをもらった。
少しでも恩返しをしたい。陽介が大好きだから、守りたい。陽介にはいっぱい笑っていてほしい。
「だから、ぼくはお父さんのところにいた方がきっと良いんです」
「君の気持ちはよくわかったよ。でも花村さんの気持ちは理解してるかな?」
「え?」
顔を上げると、佐藤さんが静かに微笑んでいた。だけどちょっぴり悲しそうにも見える。
「花村さんにとって、悠君がいない方が幸せなのかな?」
「だって…ぼくがいると、陽介が…」
「花村さんに聞いてみた? どっちが良いのか」
首を振った。だって、色々イヤなことを言われるんだったら、僕がいない方が良いにきまっている。
「君が花村さんを守りたい気持ちはよくわかったよ。だけどね。花村さんも同じくらい君のことが大好きで、君を守りたいんじゃないかな。花村さんと話していると、僕はそう思うよ」
「陽介が…僕を?」
「もし君が花村さんの立場だったらどう思う? 悠君を守りたいからって、花村さんがどこかへ飛び出して行ってしまって、帰ってこないんだとしたら」
そんなのイヤだ。なんでそんな勝手なことをするんだって怒ると思う。
そう思って、ハッとした。
「僕………」
「ふたりが一緒に暮らしたいって思っているのに、誰かの謂われない言葉を気にして別々に暮らすことが本当に幸せなのかな」
そう問いかけられて、うまく言えないけど、何だかちがうような気がした。
佐藤さんがうなずいた。
「もし、みんなの誤解を解けば、また一緒に住めるかもしれない」
僕だけガマンすれば良いんだって思っていた。でも、ちゃんと誤解を解いて、陽介は悪くないって僕が言えば、みんな、わかってくれるかもしれない。ちゃんと言葉にしなきゃ伝わらないことだってある。そのことを忘れていた。
「僕…考えたいです。陽介が傷つかない方法を」
「うん。一緒に考えよう。僕もできる限り応援するし、警察にも相談するよ。お父さんや花村さんに直接話しにくいことがあれば僕が代わりに話したって良い。君はまだ子どもなんだから、ひとりではできないことは大人を頼れば良いんだよ」
「はい」
僕はひとりで何でもやろうとしていた。でも、佐藤さんや、他の大人にも手伝ってもらっても良いんだ。そしたらもっと良いアイデアがみつかるかもしれない。
僕がうなずくと、佐藤さんがにっこりと笑った。佐藤さんも、陽介のうちに来た田村さんも僕のきもちを一生けんめい感じとってくれる。それがとてもうれしい。
「佐藤さん、ありがとうございます」
おじぎをすると、佐藤さんは「どういたしまして」と歯を見せて笑った。
「佐藤さん、今日佐藤さんが来たこと、お父さんに言ってもだいじょうぶですか?」
たずねると、佐藤さんの顔がくもった。
「悠君…もし僕が来たことをお父さんに言うと、お父さんは不機嫌になるかもしれない。それでも大丈夫? もし心配なら、僕のことは黙っていた方が良い。それか、僕がお父さんと直接話すから、悠君はしばらく相談所で身を隠しても良いんだよ」
そう言われて、怒った時のお父さんを思い出して体がふるえた。怖いけど、でも自分のことなんだから僕が考えて行動しなくちゃ。あわてて顔を振った。
「大丈夫、です。僕のお父さん、キゲンが悪い時もあるけど、良い時もあるから。その時に話せばきっとわかってくれます」
佐藤さんはぼくを見て、真剣な顔で言った。
「悠君。これだけは覚えておいてほしいんだ。お父さんに何か言われたり、されたことを疑問に思ったって良いんだ。人の数だけ色んな考え方がある。お父さんの価値観、考え方がぜんぶ正しいとは限らない。押しつけられたものをぜんぶ受け入れる必要はない。悠君には、まず自分自身を大切にしてほしい」
何が言いたいのかわからない部分もあったけど、佐藤さんが僕のことを心配してくれているっていうのは伝わった。
「されてイヤだって思ったことをお父さんには直接言いにくいかもしれない。そんな時は僕のことを思い出してほしい」
佐藤さんは名刺とテレホンカードをくれた。
「これ…田村さんにももらいました」
「うん。僕じゃなくても、田村さんに電話しても良いよ。信用できると思う大人だったら誰でも大丈夫だから助けを呼んで。もちろん花村さんにでもね」
花村さんの携帯電話はおぼえているか。そう聞かれて、うなずいた。何かあった時はいつでも電話するようにって番号を何回も教えられたから、ちゃんと暗記している。
僕は色んな人に気にかけてもらえて幸せだと思った。胸があたたかくなって、今、この気持ちをぜったい忘れないようにしようって思った。
「ありがとうございます」
お礼を言って保健室を出た。佐藤さんの顔は最後までくもったままだった。
家に帰ってからカレーを作って、お父さんが部屋から出てくるのを待った。
お腹がすいて、待ちながら今日佐藤さんとお話したことを思い返していた。どうやったらもっとみんなが笑っていられるんだろう。
お父さんがガリガリと髪をかいてリビングに入ってきた。ちょっと疲れたような顔をしている。
ご飯とカレーをよそって、お父さんと僕の分を並べると、席についた。
「あのね、お父さん、お話があります」
「あ?」
カレーを食べながら、少し不機嫌そうだ。また別の時にお話した方が良いだろうか。でも、時間をおいたら、もっと話しにくくなってしまうかもしれない。
「えと、あの・・・お父さん。僕、お父さんも、陽介にも笑っていてほしいんです」
「何が言いたいんだ」
「あのパソコンをもう一度見せてくれませんか。僕、陽介は何も悪くないって入力して、みんなに伝えたいです」
じっと見られて、ちょっとだけ怖い。汗が手ににじんだ。
無表情でお父さんは「食べた後で」とだけ言った。
「あ、ありがとうございます」
嬉しくて、僕も急いで食べ始めた。カレーはお父さんの口にあったみたいで、ぜんぶ食べてくれた。まったく食べないものもあるけど、お父さん、カレーは嫌いじゃないみたいだ。
もっとお父さんのことを知りたい。お父さんが何をしたいのか、何を考えているのか、もっと知りたい。
「お父さん、他に好きな食べ物はありますか。今度作ります」
お父さんはカレーを食べ終わるまでしゃべらなかった。スプーンを置くと、ふうと息をついた。
「あの佐藤って男が来て、何かお前に吹き込んだのか」
低い声でたずねられ、うなずいた。
「陽介のことを聞きました。元気がなかったって」
「ふうん」
「僕、陽介には元気でいてほしくて…。それから、お父さんにも笑ってほしいです」
お父さんは手で顔をおおって、急に腹の底からこみ上げるような笑い声をあげた。
「くっ…はは………、そうだなあ。彼のことはわからないが、俺が笑っていられる方法ならあるぞ」
「ほんと?」
顔を覆っていた手をどけて、お父さんは僕を見た。
「俺の仕事は収入が不安定なんだ。良い時もあれば悪い時もある。だからもし、それにプラスして安定した副収入が得られれば家計が助かるんだがなあ。…なあ、悠、お父さんを助けてくれないか」
僕はよく考えもせず、それでお父さんが笑っていられるならと思い、「はい」とうなずいた。
お皿を片付けると、お父さんが持ってきたパソコンでこの前見せてもらった、陽介の悪口が書かれていたページにアクセスしてもらって、僕も書き込みをした。
『僕は陽介と一緒に住んでいた子どもです。陽介は何も悪いことはしていません。僕のことを心配して一緒に住んでくれたんです。いつも僕に元気をくれる大好きな人です。だからもう陽介の悪口を言わないでください』
しばらくすると、他の人が書き込みをした。
「やらせ乙」
「見苦しいよ。中年男の自作自演は」
僕の気持ちが伝わらない。どうしてだろう。さらに書き込みを書いたけれど、同じ反応で、僕の言葉を信じてくれる人はいなかった。
「気が済んだだろう。仕事でパソコンを使いたいんだ。もう終わりなさい」
パソコンをお父さんが持っていって、僕はしばらくぼうっとしてしまった。どうしたら良いんだろう。もっと方法を考えなくちゃ。
ある日、お父さんに車で連れられて、僕の服を買いに行った。店員さんに選んでもらった高いブランド服を着るように言われた。着終わってからねふだを見ると、0の数がいっぱいだ。
「こんなの高いよ。もっと安い服で良い」
「お前の気持ちは関係ない。これからは商品イメージに合った服を着るんだ」
「商品イメージ?」
僕がその服を着た姿を見て、父親が店員さんに言った。
「この服はそのまま着ていくからタグをとってくれ」
他の服と合わせて会計した。それ以上なにも言わず、父親はどんどん歩いていくから、その後をついて行った。
その日から僕はモデルのおしごとをするようになった。
最初はお父さんが一緒に行ってくれたけど、僕がスタジオへの行き方を覚えると、それからはひとりで行くようになった。
最初はそれでお父さんが喜んでくれるんならって思った。
でも僕がおしごとをするようになっても、お父さんは変わらなかった。キゲンが良い時もあるし、悪い時は僕をにらんだり、どなったり、お腹をなぐったりする。ひとつだけ変わったことといえば、顔だけはたたかなくなったことだ。
「仕事にさしつかえると困るからな。それにまたあの佐藤って男に来られても迷惑だしな」
そう言って、顔をゆがめて笑ったお父さんの顔が頭に焼き付いてはなれない。
どうしてお父さんのことをずっと忘れていたのか。僕は最近になって思い出した。
小さい時、僕はお父さんにたたかれた。よく覚えてないけど、僕が何か悪いことをしたのかもしれない。何度も何度もたたかれた。それでお母さんが走ってきて、泣いている僕をだきしめてくれた。そしたらお父さんがお母さんもたたこうとした。だから僕はお母さんとお父さんの間に立って、手を広げてお母さんを守った。
そしたらお父さんが背中を向けて、家を出て行ったんだ。お父さんは帰ってこなくなってしまった。
僕のせいでお父さんが出て行ってしまった。自分のせいで出ていってしまったことを考えたくなくて、いつの間にかお父さんのことを忘れてしまったんだ。胸の奥深くにしまって、思い出さないようにしていたんだ。
忘れていたかった。そうすれば自分のしてしまったことに苦しまなくて済んだんだ。
出ていった後、僕が忘れている間、お父さんはどういう気持ちだったんだろう。
いっぱい考えたけど、わからなかった。それはお父さんに聞かなくちゃわからないことだった。でもこわくてお父さんに聞けなかった。
僕は授業が終わると、いつものように図書館に行った。
電車の運行表を手にとって、机に座った。
路線図と時刻表をいっしょに見比べた。この電車に乗って、駅をふたつ行ったところで降りたら、この電車に乗りかえて。それからその後こっちの電車に乗れば、八十稲羽に行ける。心に思いえがいた。八十稲羽の駅に降りたら、家まで走っていくんだ。
僕が会いに行ったら陽介はどんな顔をするだろう。ビックリするだろうか。
そんな風にかんがえることが一番楽しくて、気持ちがおちつく時だった。
それから何回か佐藤さんが会いに来てくれて、一度だけ子どもがいる施設に寝泊まりしたこともあった。だけど、その後家に戻るとお父さんはもっとたくさん僕をたたいた。よけようとするとお腹をけられて、痛くて動けなくなってしまった。
「学校には俺から連絡しておくから休め。だが、夕方のモデルの仕事はちゃんと行けよ」
そう言われ、だんだん僕は考える元気がなくなってしまった。
何も考えず、お父さんの言うことを聞いていれば、叩かれない。きっと言う通りにしていれば良いんだ。そう思うようになった。
雑誌に僕の写真が何回か載るようになって、モデルのお仕事の他に、インタビューも受けるようになった。
リビングに置いてあったインタビューがのった雑誌を読むと、僕が言ったこととは違う内容になっていてビックリした。僕が僕とは違う誰かになっていくような、ヘンな気分だった。じゃあ一体僕ってどんなヒトなんだろう。自分で自分がよくわかならくなってしまった。
インタビューをいくつか受けるようになってからのことだった。
お父さんに連れられてテレビ局に行った。受付で話をすると、しばらくして男の人がやってきた。
僕を見て、にやりと笑った。
「いやあ、記事通りのミステリアスな雰囲気だねえ。今話題の男の子が初登場となると数字が取れそうだ」
「例の契約、ちゃんと結ぶ気になってくれただろうな」
「もちろんです。さあ、どうぞ」
お父さんに「どこかに行ってろ」と言われ、僕はよくわからないまま中をうろうろした。
僕はいったい何をしているんだろう。いつか料理人になりたいと思っていた。だけど、お父さんの言われるままモデルの仕事をつづけている。料理をする時間もへってしまった。お父さんは「コンビニで買ってくるか、外食すれば良いだろう」って言う。
僕が料理しなくても誰も困らない。じゃあ、僕はただお父さんの言う通りにしていれば良いんだろうか。自分のきもちが良くわからなくなってしまった。
なんだか無性に陽介に会いたくなった。会えないなら、せめて陽介の声が聞きたい。
食材を買うためのお財布の中に入れておいたテレホンカードを手にした。電話を探して歩き回った。
奥に暗くて大きい部屋があって、中に進んでいくと、たくさんの大人があちこち歩いている。
「あら、子役はこの番組には呼んでないはずだけど。出演者のお子さんかな? ここは機材が行き来するから危ないよ」
たくさんの荷物を持っているお姉さんがしゃがんで僕に話しかけてくれた。
「あの…電話ってありますか?」
「公衆電話?」
うなずくと、お姉さんが電話のある場所への行き方を教えてくれた。お礼を言って電話のある場所まで移動した。
陽介のケイタイ番号は覚えていた。何かあった時はいつでもかけて良いぞっていつも言っていた。今も同じだろうか。もう電話したらメイワクかもしれない。それでも、一瞬でも良いから声が聞きたい。
番号を一個一個、押すたびに胸の音が跳ねて、ちょっと痛い。手がふるえてしまって、まちがわないようにゆっくり押した。
押し終わって、電話がつながるまでの間に何度も切ろうと思った。今はおしごと中かもしれない。だけど…だけど。
『もしもし?』
つながって、びっくりして受話器を落としそうになった。あわててつかみ直して耳に当てた。間違いない、陽介の声だ。
『もしもーし、どちら様ですか?』
「………っ」
しゃべったらきっとダメだ。僕だってバレたらきっと陽介が心配する。陽介は優しいから、僕が困っていたらきっと助けに来ちゃう。ダメだ。僕に近づいたら、陽介がたくさんの人に悪口を言われちゃうんだから。
『……悠? もしかして悠なのか?』
名前を呼ばれたら、ぎゅうっと胸がしめつけられて、苦しくなった。ココアみたいにホッとする、やさしい声。変わらない、ぼくの大好きな声。
僕の名前を大切そうに呼んでくれた。
涙が自然にあふれた。ぼろぼろとほっぺたを流れた。
僕はずっとガマンしていたことに気がついた。ずっと苦しかったんだ。イヤなことをガマンして、お父さんの言うことを聞いていれば良いんだって思いこもうとしていた。何も考えないようにしていた。だけど僕がガマンしても、誰も笑ってくれなかった。
悲しい。さみしい。陽介のそばにいたい。
『なあ…何か言ってくれ。今、どこにいる』
「おい、悠」
遠くからお父さんの声がして、あわてて電話を切った。涙をウデでぬぐって、走って、お父さんの所に行った。
「あまり遠くに行くな」
「ご、ごめんなさい…」
僕を見て、お父さんが怖い顔をした。
「何をしていたんだ」
陽介に電話していたって言ったら怒られるだろうか。たたかれるのはイヤだ。
「中を…見学していました」
「……ふん」
お父さんの後をついていくと、テレビ局の出口に向かった。
その途中で、さっき電話の場所を教えてくれたお姉さんがいたからおじぎした。
「あの、お父さん」
お父さんは歩きながら僕を見た。
「僕、もうモデルの仕事をしたくありません」
「何をバカなことを言っている」
「それにね、僕、陽介のところに戻りたい…。もっと料理の勉強をして、料理人になりたい」
ワガママを言っているってわかっている。だけど、自分の望みをハッキリ口にできて、スッキリもしていた。
「佐藤とか言う男になにか唆されたか」
「ちがいます、僕自身が思ったことです。誰かに言われたことじゃないです」
お父さんが僕を見て、眉をつり上げた。頬や目のまわりがピクピク動いていて、今まで見た中で一番怖い顔をしている。
「…お前は俺の子どもだ。なのに俺から逃げるつもりか」
「ちがいます、そうじゃなくて…」
手を掴まれて、引っ張られてムリやり歩かされた。何だかすごくイヤな感じがして、逃げようとした。だけど肩をつかまれてうまく逃げられない。
「はなして、ください。痛いです…っ」
「ちょっと、何をしているんですか。その子、嫌がってるじゃないですか」
さっきのお姉さんが走ってきて、お父さんを引きとめてくれた。
「俺の子どもだ。部外者は黙ってくれないか」
そう言われて、お姉さんが迷ったように僕の目を見た。
「あの…お願いします。助けてください」
「ほら、やっぱり、嫌がってるじゃない」
お姉さんが僕とお父さんを引き離そうとしているうちに、さわぎを見て、僕達の周りに人だかりができた。チッとお父さんが舌打ちした。
お姉さんが他の人たちに説明すると、お父さんは警備員さんに連れていかれた。僕は別の部屋に案内されて、お姉さんたちに話を聞かれた。
僕が陽介と暮らしていたこと、お父さんに連れていかれて今はお父さんと住んでいること、モデルの仕事がイヤで、陽介のところに戻りたいと言ったらお父さんが怒ったこと。それらを話すと、お姉さんがむずかしそうな顔をした。
「どうしましょう。今の話だと、私たちには…」
「たたかれたり、なぐられたりするのもイヤだけど、自分の心にウソをつくのが一番イヤなんです。お願いします。助けてください」
もう一度お願いすると、お姉さんは他のおじさんと顔を見合わせた。それから僕を見た。
「…お父さんになぐられた痕とかある?」
僕は服のすそをまくり上げて、お腹を見せた。紫になっているお腹を見て、お姉さんがおじさん達と話した。
「警察を呼びましょう」
そう言ったので、僕はお財布に入っている佐藤さんの名刺を出して見せた。
「あの、この人にも電話してもらえますか。きっと助けてくれるから…」
お姉さんがうなずいてくれて、僕はほっとした。だけど、お父さんには悪いことをしてしまったかもしれない。もし、またお父さんと顔を合わせたら、すごくすごく怒られるかもしれない。
僕は病院に連れていかれて、お医者さんに叩かれたり、お腹をなぐられたことを説明した。いろいろな検査をして、部屋から出ると、佐藤さんが部屋の前に立っていた。
「悠君」
佐藤さんの顔を見たら、ちょっとホッとした。佐藤さんはかけ寄って、僕をぎゅっと抱きしめてくれた。
「ごめん。こんなことになる前に君を守れなくて。自分が不甲斐ないよ」
どうして僕のことなのに、佐藤さんがあやまるんだろう。きっと僕のことを心配してくれていたんだろう。
「僕は大丈夫です。佐藤さん、心配させてごめんなさい」
「君は…人のことばかり心配するんだね」
そう言って、佐藤さんが泣きそうな顔をした。
「陽介がそうだから。僕にもうつっちゃったかも」
陽介が自分のことを置いて、いつも僕のことを心配してかけつけてくれるから。いつの間にか、僕もそうなったのかもしれない。
何度も佐藤さんに頭を撫でられて、くすぐったい気持ちになった。
お医者さんからは「損傷はあるものの、骨や内臓に異常はありません。以前から複数回虐待を受けていた可能性があります」と言われた。お父さんに前にも殴られたかと聞かれて、僕はうなずいた。
ウソをついても陽介は守れない。だったらちゃんと本当のことを話さなくちゃ。ウソつきの言葉なんてきっと誰も信じてくれないから。
「証拠写真を撮らせてほしい。君のいのちを守るために必要なことだから」
佐藤さんにそうお願いされて、うなずいた。服をまくって、お腹や背中の写真を撮った。
それから、佐藤さんと一緒に警察の人とお話して、夜は佐藤さんが働いているところに泊まることになった。
「しばらくここから学校に通おう。もしお父さんが学校に会いにきても絶対会ってはいけないよ。また君を連れ戻す可能性があるからね」
「あの、佐藤さん…お父さんに謝っちゃいけないんですか」
「謝るって、君が…かい?」
うなずくと、佐藤さんが目をパチパチさせた。
「僕、いっぱいワガママを言ってお父さんをこまらせたから。それにね、お父さんにも笑ってほしいのに、僕、笑わせられなかったから」
そう言うと、佐藤さんは悲しい顔をした。
「…それは大人にも難しいことかもしれない」
「どうしてですか?」
「色んな子どもたちの成長を見ていたから何となくわかるんだ。君のお父さんは親からの愛情を受けずに育ったのかもしれない。そういう人の多くは心が歪んでしまって、素直に愛情を受け入れることができないんだ」
僕や他の誰かがお父さんに何かしてあげたいと思っていても、お父さんは受け入れられないんだとしたら。
「お父さん、かわいそう」
「うん…そうだね。できればお父さんには心のケアを受けてほしいよ」
「僕、お父さんに何もできないのかな」
佐藤さんはじっと僕の目を見た。
「あるとすれば悠君。君が笑って過ごすことだよ」
言われたことがよくわからない。そう思って、顔をかたむけると、佐藤さんは言った。
「君が幸せに生きることが、きっとお父さんの良い見本になる。僕はそう思うよ」
僕は施設にいる間、手紙を書いた。お父さんへの手紙だ。
『お父さん、言うことを聞かなくてごめんなさい。お父さんには笑っていてほしいのに、笑わせられなくてごめんなさい。もう会えないかもしれないので、手紙を書きました。やさしい時のお父さんは好きです。カレーをたくさん食べてくれてうれしかったです。ひとりでもちゃんとご飯を食べて、元気でいてください』
その手紙を佐藤さんにお願いしてお父さんに出してもらった。
すると、ある日、お父さんから電話が来た。どうしても僕と話したいらしい。
「悠君。出なくても良いんだよ」
佐藤さんが心配してくれたけど、僕は首を横に振った。ちゃんとお父さんに謝らなくちゃ、そう思って電話に出た。
「はい。お父さん、僕…」
『悠、お前も俺を捨てるのか』
「え?」
お父さんはひとり言みたいに何か言っている。『お父さんもお母さんも、早紀も…あいつも…どうして俺を見捨てるんだ。みんな、俺を置いていってしまう』
「お父さん? あのね」
『助けてくれ、悠』
急に大きな声を出したから、ビックリして声がうまく出せない。
『助けてくれ、もう約束して、手付金をもらっているんだ。お前は俺を見捨てないだろう?』
初めて本当に、お父さんの本心から「助けてほしい」と言われた気がした。だから、言葉はうまく出なかったけど、うなずいた。
「最後だから」と、お父さんは何度も言った。佐藤さんたちには内緒でお父さんと一回だけ会うことになった。
施設の人に送ってもらって学校に行って、その昼休みに学校の裏門でお父さんと待ち合わせをした。
なかなかやってこなくて、もしかして他の門で待ち合わせだっただろうかと考えはじめた時だった。
急に手を引っ張られて、ビックリした。
見ると、お父さんが怖い顔をして、黙って僕を引っ張って歩き始めた。
「お父さん、痛いです。あの、」
近くに車があって、その中に乗せられた。
「あの、お父さん、僕早退するって先生に言ってないです」
「言っただろう、これが『最後』だって」
運転するお父さんの顔を見たら、表情がぜんぜんなくて、何だか怖かった。
ペルソナやテレビの世界がなく、事件も起こらなかった八十稲羽の数年後のお話。主人公(鳴上悠)が小西先輩の息子という特殊設定です。
今回は悠とお父さんの話がメインです。
素敵な表紙イラストは茶絣ぶみさん(https://www.pixiv.net/member.php?id=1731387)に描いていただいています。毎回新しいイラストを描いてくださるのをわたしも励みに続きを書いているので、本当に頭が上がりません(五体投地)
本文はつづき↓からどうぞ。
お父さんはキゲンが良い時と悪い時がある。
キゲンが良い時は僕の作ったご飯を食べてくれる。
「誰もお前に別に作れなんて言ってないだろう」
大きな音を立ててイスに座って、そう言いながらも口にしてくれる。
お仕事をしているのか、タブレットをながめながら箸に手をつけている。
片手だと食べにくそうだから、今度スプーンで食べられるものか、おにぎりを作ってみようと思った。
物置きだったという部屋をもらったので、置いてある古い新聞や使ってないパソコンをすみっこに寄せて、勉強するスペースと寝るスペースを作った。
陽介と住んでいた時はいつも陽介が何かしている音が聞こえるのが当たり前だったのに、よく眠れた。だけどこの家では自分の部屋に入るととても静かで、なのになかなか眠れなかったし、何度も夜に目がさめた。
朝、起きると朝ご飯におにぎりとほうれん草のおみそ汁、それに卵焼きを作った。じょうずに焼けて、美味しくできたと思う。
台所には使っていなかったフライパンや鍋や食器がいくつもあった。使って良いか前に聞いたら「女が置いていったものだ。好きにしろ」って言われた。だからもらった食費でご飯を作るようになった。
お父さんはまだ寝ているのか、部屋から出てこないので、「食べてください」とメモを書いて、新しい学校へと行った。
新しい小学校はクラスがいっぱいあって、僕みたいに転校する子も多いらしい。僕がとちゅうから転校してきても誰も気にする子や話しかけてくる子もいなくて、何だか僕は空気みたいだった。八十稲羽とは何もかも違う。
帰りの時間になると、としょ室に行った。料理の本、猫のずかん、色々なおしごとについての本を読んだ。何となく帰りたくなくて、できるだけ遅くまでいて、下校時間になると、読みかけの本を借りてマンションに行った。
できるだけ音をたてないようにドアを開けた。部屋の奥からは行ったり来たりするような足音が聞こえてくる。「結局、昨日と同じか」とか、「また下落」とか、ひとりごとを言っている。
キッチンに行くと、おにぎりもみそ汁もそのままだった。
「あーーーーー、クソ!クソ!何でだ!」
いらだった声、机をたたきつけるような大きな音が何度も鳴った。びっくりして肩がゆれた。今日はお父さんのキゲンが悪い日みたいだ。なるべく静かにしていよう。
できるだけ音を立てないようにダメになったおにぎりを捨てて、鍋に入ったおみそ汁をシンクに流した。
「あっ」
お鍋が重くて、シンクに落としてしまい、大きな音が部屋中にひびいた。どうしよう、お父さんに聞こえちゃったかもしれない。胸がイヤな音を立てた。
水を止めると、ドアが開いて、お父さんが大きな足音を立ててやってきた。
「うるさい! 俺が仕事している時に音を立てるなって言っているのに、何でそんなこともできないんだ?」
「ご…ごめんなさい…僕…」
目の前から見下ろすように立たれて、僕はうまく言葉が出ない。チッという舌打ちといっしょに「これだからガキは嫌いなんだ」って言われて、ズキッと胸が痛くなった。
「俺の仕事は成功か失敗が分かれるデリケートさが求められるんだ。俺のおかげでメシが食えているのがわかっているのか?」
「は、い……」
お父さんを見ると、ギロリと怖い顔で睨まれた。
「何だその反抗的な目は? ああ?」
いきなりお父さんにほっぺたを手でたたかれた。目の前に星が飛んで、びっくりして声が出ない。勢いで倒れてしまい、起き上がることもできない。
「イライラさせるな。お前は俺の言うことだけ聞いていれば良いんだよ!」
声と同時に背中をけられて、声がうまく出せなくてヒュウヒュウと音ばかりが漏れた。
お父さんが苦しそうに息をしていて、見上げると、ぎゅっと自分の手を強くにぎっていた。頭を抱え、身体をちぢこまらせて「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と何度も同じことを呟いている。
しばらくすると、お父さんは早足で自分の部屋に戻って行った。
僕は何とか起き上がった。顔や背中は痛いけど、動けそうだ。だから夕飯のしたくをしはじめた。お父さんにスーパーで食材を買うためのお金をもらいたかったけど、声をかけるのが怖かった。
お風呂そうじをして、ちょっと待ってみたけど、お父さんは部屋から出てこなかった。
だからこの前買ってきたそうめんをちょっとだけゆでて、自分の分を作った。ネギも玉子もないから、めんつゆをお湯でうすめて、冷蔵庫に入っているのりをちぎってかけて食べた。
できるだけ音を立てないようにラグの上に座って温かいそうめんを食べた。
僕は何のために料理をしているんだっけ。何で料理を作る人になりたいって思ったんだっけ。僕が料理をしなくても誰もきっと困らない。何だか暗い気持ちになっていく。そのままどこまでも沈んでいきそうだ。
だから陽介といっしょにご飯を食べた時のことを思い出した。焦げちゃってまずくなっちゃった時は何だかおかしくてふたりで笑ったなあ。うまくできた時は陽介が食べながら「最っ高!」ってものすごくホメてくれて、お腹いっぱいご飯を食べて、おしゃべりして、本当に楽しかった。イヤなことがあった日でも、陽介といっぱいおしゃべりしてると、いつの間にかイヤなことを忘れちゃうんだ。
陽介と過ごした時間はキラキラと光る宝石がいっぱい詰まった箱みたいだ。
「よう、すけ…」
元気にしているかな。ちゃんとご飯を食べているかな。笑っているかな。陽介が笑ってくれたらすごくすごく嬉しい。だけどもし、僕のことを忘れて向こうで笑っているんだったら、なんかイヤだって思う自分もいる。陽介が幸せならそれで良いって思っていたのに、何でだろう。
陽介のことを思い出しながら食べるそうめんは、ちょっとだけしょっぱかった。
次の日、鏡を見たらお父さんに叩かれたほっぺたが腫れていた。
めずらしくお父さんが朝ご飯の時間にやってきた。
「あの、ごめんなさい。お父さん。ご飯を買うお金がなくて…朝ごはんをじゅんびできなくて」
そう言うと、手が僕の方へ伸びてきた。また叩かれるかもしれない。思わず目をつぶった。だけど、ほっぺたを手のひらでなでられたのだとわかって、びっくりして目を開けた。お父さんは昨日とは別の人みたいに優しい目をしていた。
お父さんに叩かれると思ってしまった自分が恥ずかしい。
「何だ、言ってくれたら良かったのに。これからはキッチンにお金を置いておくから自由に使いなさい。今日はふたりで朝ご飯を食べに行こう」
学校に行く支度も一緒にしておけよと言われて、着替えて準備をすると、お父さんが車でレストランに連れて行ってくれた。
「悠の好きなものを頼みなさい」
そう言われて、たくさんあるメニューの中から、なかなかえらべなくて、でもあんまり待たせるとお父さんがイライラしちゃうかもしれないから、キッズメニューの中から一番上をえらんだ。
お父さんが自分のとふたり分を注文してくれて、待っている間、どうしたら良いかわからなくて、窓の外の車が行ったり来たりするのをながめていた。
「昨日は悪かった、悠」
お父さんにそう声をかけられて、見上げた。穏やかな顔で笑っている。昨日のお父さんとは全然ちがう人みたいだ。
「昨日は仕事がうまくいかなくて、イライラしていたんだ」
あわてて首を振った。
「大丈夫、僕!」
「そうか」
そう、誰だってキゲンが悪い時はあるんだ。たまたまそれが昨夜だったってだけだ。
「だけどな、俺は暴力を振るっているんじゃなくて、教育をしているんだ。いいな、悠?」
「きょう…いく?」
お父さんはうなずいた。
「ああ、そうだ。愛情があるからこそお前を殴るんだ」
僕は殴られなくても、口で言ってくれたらちゃんと理解できるのに。そう言いたかった。だけど何か言うと、お父さんのまたキゲンが悪くなってしまうかもしれない。そう思うと何も言えなかった。
「お父さんも自分の父親にそうやって教育されて育ったんだ。父は自分のような完璧な人間になりなさいとよく言っていた。…俺はその期待には答えられなかったがな」
そう言って、お父さんはどこか遠くを見た。
カンペキな人ってどんな人だろう。べんきょうができて、運動もできる人かな?
「私はお前に完璧を求めたりしない。最低限当たり前のことができるよう教育するが、後はお前の好きにしたら良い。だけど、二人きりの家族なんだ。協力して生きていこうな?」
そう言われて、元々そのつもりだったから「うん」と頷いた。
「もし誰かに顔のアザを聞かれたら、転んだと言うんだぞ」
「え…?」
ウソをつかなきゃいけないんだろうか。すると、お父さんが僕の目を見て言った。
「もし俺がやったと疑われたらどうなると思う? またあの児童相談所の人間が来て、俺のところにいるのは不適当だなんだと言って、お前をあいつ……花村だったか? あの男の元に戻そうとするぞ。それでも良いのか?」
もし陽介のところに戻されたら、陽介はまたあのパソコンに書きこまれていたような言葉をたくさんの人に言われて、傷ついてしまうかもしれない。
あわてて首を横に振った。
「僕、誰にも言わないよ!」
ウソは良くないけど、陽介が困るのはぜったいに嫌だ。
うっすらとお父さんが笑った。
「ああ、それが良い」
それから注文した料理が届くとお父さんは何も言わず、窓の外を見てコーヒーを飲んだ。
朝ご飯を食べ終わると、お父さんに車で学校まで送ってもらった。
学校に行くと、担任の先生に、「ちょっと鳴上君。その顔、どうしたの?」と呼びとめられた。
「…何でもないです」
ウソはつきたくなくて、でもお父さんが言うみたいなことになったらイヤだったからそう答えた。
そうしたら、先生はむずかしそうな顔をして、「保健室に行きましょう」と僕の手を引いて、連れて行った。「本当に大丈夫です」と言っても、先生は聞いてくれなかった。
保健室に行くと、保健室の先生が冷たい布で冷やしてくれた。
「これ、自分の手で持って、しばらく冷やしておいてね」
そう言われて、頷いていると、保健室の奥で担任の先生と保健室の先生が話し合っている。声が小さくて、「児相から連絡が来た通り…」「…通報します」と所々しか聞こえない。
お父さんが言ったようにウソをついた方が良かったんだろうか。
「あの…僕、もう大丈夫です。教室に行きます」
保健室の先生に布を返しておじぎをして、保健室から逃げた。僕のことを心配してくれる先生たちに申し訳ないと思った。でも、もし陽介に迷惑をかけるようになってしまったら。それだけは絶対に嫌だ。
算数の時間が始まって、いつも通りに勉強した。
だけど、お昼休みになると、先生に「もう一度保健室に行きなさい」と言われて、何回も「もう大丈夫」と言ったけれど、手を引かれたまま、聞き入れてもらえなかった。
先生に連れていかれて保健室に行くと、この前マンションに来た佐藤さんがそこにいた。思わず逃げようとすると、担任の先生に捕まえられた。ドアの前で先生が立ちふさがっているから逃げられなくなってしまった。
「本当に何でもないんです」
「だったら何で逃げるんだい? 何もやましいことがないなら僕と話せるよね?」
言われた通りだから、逃げることもできなくなってしまった。
「悠君、おいで」
僕が立ったままでいると、佐藤さんが僕の目をじっと見たまま待っていた。
「悠君。僕はね、君のことを困らせたいわけじゃないんだ。ただ君が思っていること、感じていることをありのまま教えてほしいんだ。もしかしたら君の力になれるかもしれない」
もし佐藤さんに何か言ったら、お父さんの言う通り、陽介の元に戻されてしまうかもしれない。
「もしかして、お父さんに何か言われた?」
「…ちがいます」
お父さんに言われたからじゃない。ぼくが陽介を守りたいから。だから何も答えなかった。そうしたら、佐藤さんはなぜかふっと息を吐いて笑った。
「花村さんの言う通り、意思の固い子だね」
陽介の顔を思い出して、何だか急に胸がくるしくなった。陽介は僕のこと、何て言ったんだろう。
「花村さん。悠君のこと、色々話してくれたよ。料理が上手で、真面目で、こうと決めたことには頑固だって」
「………あの、陽介は元気ですか?」
そう尋ねると、佐藤さんの目つきがやわらかくなった。
「ちょっと元気がなさそうだった。あんまりご飯も食べてないみたい」
「え……」
「悠君と会えないのが、一緒に暮らせないことがこんなに辛いとは思わなかったって。そう言っていたよ」
そう言われて、泣きそうになった。陽介に会いたい。そう言いたくなるのをぐっとくちびるをかみしめてガマンした。
「花村さんのことが好き?」
そう聞かれて、素直に頷いた。
「じゃあどうして花村さんのところに帰りたくないのかな? お父さんと一緒に住んでいても、彼に会おうと思えば会える。なのに悠君は顔を会わせようとしなかった。何か理由があるんじゃない?」
陽介が色々言われているってことを言っても良いんだろうか。でも佐藤さんから、陽介にこのことが伝わったら、陽介はイヤな思いをするかもしれない。
「あの……陽介には言わないでください。ぜったいに」
「わかった。花村さんに言わないよ」
佐藤さんが僕の目を見て頷いてくれたから、ホッとして、ぼくの気持ちを打ち明けた。
「あの、お父さんに見せてもらったんです。陽介がパソコンで、色々悪口を言われているのを。僕が陽介と一緒にいると、陽介が悪く言われちゃうんです」
そう伝えると、佐藤さんが小さく口を開けて、僕を見た。
「…花村さんを守りたいから、お父さんの所に行った?」
「はい」
頷くと、佐藤さんがなぜだか顔をくしゃっとゆがめた。
「そうか。悠君……君は強いんだね」
「僕、陽介にいっぱいもらったから。陽介がいなかったら今の僕はいないから」
お母さんが死んじゃって、僕はとほうにくれた。これからどうすれば良いのか、全然わからなかった。その時、陽介だけが僕の目を見てくれた。陽介だけが僕の手をつかんでくれた。
陽介と家族になって、いっぱいあたたかい気持ちをくれた。やさしいモノをもらった。
少しでも恩返しをしたい。陽介が大好きだから、守りたい。陽介にはいっぱい笑っていてほしい。
「だから、ぼくはお父さんのところにいた方がきっと良いんです」
「君の気持ちはよくわかったよ。でも花村さんの気持ちは理解してるかな?」
「え?」
顔を上げると、佐藤さんが静かに微笑んでいた。だけどちょっぴり悲しそうにも見える。
「花村さんにとって、悠君がいない方が幸せなのかな?」
「だって…ぼくがいると、陽介が…」
「花村さんに聞いてみた? どっちが良いのか」
首を振った。だって、色々イヤなことを言われるんだったら、僕がいない方が良いにきまっている。
「君が花村さんを守りたい気持ちはよくわかったよ。だけどね。花村さんも同じくらい君のことが大好きで、君を守りたいんじゃないかな。花村さんと話していると、僕はそう思うよ」
「陽介が…僕を?」
「もし君が花村さんの立場だったらどう思う? 悠君を守りたいからって、花村さんがどこかへ飛び出して行ってしまって、帰ってこないんだとしたら」
そんなのイヤだ。なんでそんな勝手なことをするんだって怒ると思う。
そう思って、ハッとした。
「僕………」
「ふたりが一緒に暮らしたいって思っているのに、誰かの謂われない言葉を気にして別々に暮らすことが本当に幸せなのかな」
そう問いかけられて、うまく言えないけど、何だかちがうような気がした。
佐藤さんがうなずいた。
「もし、みんなの誤解を解けば、また一緒に住めるかもしれない」
僕だけガマンすれば良いんだって思っていた。でも、ちゃんと誤解を解いて、陽介は悪くないって僕が言えば、みんな、わかってくれるかもしれない。ちゃんと言葉にしなきゃ伝わらないことだってある。そのことを忘れていた。
「僕…考えたいです。陽介が傷つかない方法を」
「うん。一緒に考えよう。僕もできる限り応援するし、警察にも相談するよ。お父さんや花村さんに直接話しにくいことがあれば僕が代わりに話したって良い。君はまだ子どもなんだから、ひとりではできないことは大人を頼れば良いんだよ」
「はい」
僕はひとりで何でもやろうとしていた。でも、佐藤さんや、他の大人にも手伝ってもらっても良いんだ。そしたらもっと良いアイデアがみつかるかもしれない。
僕がうなずくと、佐藤さんがにっこりと笑った。佐藤さんも、陽介のうちに来た田村さんも僕のきもちを一生けんめい感じとってくれる。それがとてもうれしい。
「佐藤さん、ありがとうございます」
おじぎをすると、佐藤さんは「どういたしまして」と歯を見せて笑った。
「佐藤さん、今日佐藤さんが来たこと、お父さんに言ってもだいじょうぶですか?」
たずねると、佐藤さんの顔がくもった。
「悠君…もし僕が来たことをお父さんに言うと、お父さんは不機嫌になるかもしれない。それでも大丈夫? もし心配なら、僕のことは黙っていた方が良い。それか、僕がお父さんと直接話すから、悠君はしばらく相談所で身を隠しても良いんだよ」
そう言われて、怒った時のお父さんを思い出して体がふるえた。怖いけど、でも自分のことなんだから僕が考えて行動しなくちゃ。あわてて顔を振った。
「大丈夫、です。僕のお父さん、キゲンが悪い時もあるけど、良い時もあるから。その時に話せばきっとわかってくれます」
佐藤さんはぼくを見て、真剣な顔で言った。
「悠君。これだけは覚えておいてほしいんだ。お父さんに何か言われたり、されたことを疑問に思ったって良いんだ。人の数だけ色んな考え方がある。お父さんの価値観、考え方がぜんぶ正しいとは限らない。押しつけられたものをぜんぶ受け入れる必要はない。悠君には、まず自分自身を大切にしてほしい」
何が言いたいのかわからない部分もあったけど、佐藤さんが僕のことを心配してくれているっていうのは伝わった。
「されてイヤだって思ったことをお父さんには直接言いにくいかもしれない。そんな時は僕のことを思い出してほしい」
佐藤さんは名刺とテレホンカードをくれた。
「これ…田村さんにももらいました」
「うん。僕じゃなくても、田村さんに電話しても良いよ。信用できると思う大人だったら誰でも大丈夫だから助けを呼んで。もちろん花村さんにでもね」
花村さんの携帯電話はおぼえているか。そう聞かれて、うなずいた。何かあった時はいつでも電話するようにって番号を何回も教えられたから、ちゃんと暗記している。
僕は色んな人に気にかけてもらえて幸せだと思った。胸があたたかくなって、今、この気持ちをぜったい忘れないようにしようって思った。
「ありがとうございます」
お礼を言って保健室を出た。佐藤さんの顔は最後までくもったままだった。
家に帰ってからカレーを作って、お父さんが部屋から出てくるのを待った。
お腹がすいて、待ちながら今日佐藤さんとお話したことを思い返していた。どうやったらもっとみんなが笑っていられるんだろう。
お父さんがガリガリと髪をかいてリビングに入ってきた。ちょっと疲れたような顔をしている。
ご飯とカレーをよそって、お父さんと僕の分を並べると、席についた。
「あのね、お父さん、お話があります」
「あ?」
カレーを食べながら、少し不機嫌そうだ。また別の時にお話した方が良いだろうか。でも、時間をおいたら、もっと話しにくくなってしまうかもしれない。
「えと、あの・・・お父さん。僕、お父さんも、陽介にも笑っていてほしいんです」
「何が言いたいんだ」
「あのパソコンをもう一度見せてくれませんか。僕、陽介は何も悪くないって入力して、みんなに伝えたいです」
じっと見られて、ちょっとだけ怖い。汗が手ににじんだ。
無表情でお父さんは「食べた後で」とだけ言った。
「あ、ありがとうございます」
嬉しくて、僕も急いで食べ始めた。カレーはお父さんの口にあったみたいで、ぜんぶ食べてくれた。まったく食べないものもあるけど、お父さん、カレーは嫌いじゃないみたいだ。
もっとお父さんのことを知りたい。お父さんが何をしたいのか、何を考えているのか、もっと知りたい。
「お父さん、他に好きな食べ物はありますか。今度作ります」
お父さんはカレーを食べ終わるまでしゃべらなかった。スプーンを置くと、ふうと息をついた。
「あの佐藤って男が来て、何かお前に吹き込んだのか」
低い声でたずねられ、うなずいた。
「陽介のことを聞きました。元気がなかったって」
「ふうん」
「僕、陽介には元気でいてほしくて…。それから、お父さんにも笑ってほしいです」
お父さんは手で顔をおおって、急に腹の底からこみ上げるような笑い声をあげた。
「くっ…はは………、そうだなあ。彼のことはわからないが、俺が笑っていられる方法ならあるぞ」
「ほんと?」
顔を覆っていた手をどけて、お父さんは僕を見た。
「俺の仕事は収入が不安定なんだ。良い時もあれば悪い時もある。だからもし、それにプラスして安定した副収入が得られれば家計が助かるんだがなあ。…なあ、悠、お父さんを助けてくれないか」
僕はよく考えもせず、それでお父さんが笑っていられるならと思い、「はい」とうなずいた。
お皿を片付けると、お父さんが持ってきたパソコンでこの前見せてもらった、陽介の悪口が書かれていたページにアクセスしてもらって、僕も書き込みをした。
『僕は陽介と一緒に住んでいた子どもです。陽介は何も悪いことはしていません。僕のことを心配して一緒に住んでくれたんです。いつも僕に元気をくれる大好きな人です。だからもう陽介の悪口を言わないでください』
しばらくすると、他の人が書き込みをした。
「やらせ乙」
「見苦しいよ。中年男の自作自演は」
僕の気持ちが伝わらない。どうしてだろう。さらに書き込みを書いたけれど、同じ反応で、僕の言葉を信じてくれる人はいなかった。
「気が済んだだろう。仕事でパソコンを使いたいんだ。もう終わりなさい」
パソコンをお父さんが持っていって、僕はしばらくぼうっとしてしまった。どうしたら良いんだろう。もっと方法を考えなくちゃ。
ある日、お父さんに車で連れられて、僕の服を買いに行った。店員さんに選んでもらった高いブランド服を着るように言われた。着終わってからねふだを見ると、0の数がいっぱいだ。
「こんなの高いよ。もっと安い服で良い」
「お前の気持ちは関係ない。これからは商品イメージに合った服を着るんだ」
「商品イメージ?」
僕がその服を着た姿を見て、父親が店員さんに言った。
「この服はそのまま着ていくからタグをとってくれ」
他の服と合わせて会計した。それ以上なにも言わず、父親はどんどん歩いていくから、その後をついて行った。
その日から僕はモデルのおしごとをするようになった。
最初はお父さんが一緒に行ってくれたけど、僕がスタジオへの行き方を覚えると、それからはひとりで行くようになった。
最初はそれでお父さんが喜んでくれるんならって思った。
でも僕がおしごとをするようになっても、お父さんは変わらなかった。キゲンが良い時もあるし、悪い時は僕をにらんだり、どなったり、お腹をなぐったりする。ひとつだけ変わったことといえば、顔だけはたたかなくなったことだ。
「仕事にさしつかえると困るからな。それにまたあの佐藤って男に来られても迷惑だしな」
そう言って、顔をゆがめて笑ったお父さんの顔が頭に焼き付いてはなれない。
どうしてお父さんのことをずっと忘れていたのか。僕は最近になって思い出した。
小さい時、僕はお父さんにたたかれた。よく覚えてないけど、僕が何か悪いことをしたのかもしれない。何度も何度もたたかれた。それでお母さんが走ってきて、泣いている僕をだきしめてくれた。そしたらお父さんがお母さんもたたこうとした。だから僕はお母さんとお父さんの間に立って、手を広げてお母さんを守った。
そしたらお父さんが背中を向けて、家を出て行ったんだ。お父さんは帰ってこなくなってしまった。
僕のせいでお父さんが出て行ってしまった。自分のせいで出ていってしまったことを考えたくなくて、いつの間にかお父さんのことを忘れてしまったんだ。胸の奥深くにしまって、思い出さないようにしていたんだ。
忘れていたかった。そうすれば自分のしてしまったことに苦しまなくて済んだんだ。
出ていった後、僕が忘れている間、お父さんはどういう気持ちだったんだろう。
いっぱい考えたけど、わからなかった。それはお父さんに聞かなくちゃわからないことだった。でもこわくてお父さんに聞けなかった。
僕は授業が終わると、いつものように図書館に行った。
電車の運行表を手にとって、机に座った。
路線図と時刻表をいっしょに見比べた。この電車に乗って、駅をふたつ行ったところで降りたら、この電車に乗りかえて。それからその後こっちの電車に乗れば、八十稲羽に行ける。心に思いえがいた。八十稲羽の駅に降りたら、家まで走っていくんだ。
僕が会いに行ったら陽介はどんな顔をするだろう。ビックリするだろうか。
そんな風にかんがえることが一番楽しくて、気持ちがおちつく時だった。
それから何回か佐藤さんが会いに来てくれて、一度だけ子どもがいる施設に寝泊まりしたこともあった。だけど、その後家に戻るとお父さんはもっとたくさん僕をたたいた。よけようとするとお腹をけられて、痛くて動けなくなってしまった。
「学校には俺から連絡しておくから休め。だが、夕方のモデルの仕事はちゃんと行けよ」
そう言われ、だんだん僕は考える元気がなくなってしまった。
何も考えず、お父さんの言うことを聞いていれば、叩かれない。きっと言う通りにしていれば良いんだ。そう思うようになった。
雑誌に僕の写真が何回か載るようになって、モデルのお仕事の他に、インタビューも受けるようになった。
リビングに置いてあったインタビューがのった雑誌を読むと、僕が言ったこととは違う内容になっていてビックリした。僕が僕とは違う誰かになっていくような、ヘンな気分だった。じゃあ一体僕ってどんなヒトなんだろう。自分で自分がよくわかならくなってしまった。
インタビューをいくつか受けるようになってからのことだった。
お父さんに連れられてテレビ局に行った。受付で話をすると、しばらくして男の人がやってきた。
僕を見て、にやりと笑った。
「いやあ、記事通りのミステリアスな雰囲気だねえ。今話題の男の子が初登場となると数字が取れそうだ」
「例の契約、ちゃんと結ぶ気になってくれただろうな」
「もちろんです。さあ、どうぞ」
お父さんに「どこかに行ってろ」と言われ、僕はよくわからないまま中をうろうろした。
僕はいったい何をしているんだろう。いつか料理人になりたいと思っていた。だけど、お父さんの言われるままモデルの仕事をつづけている。料理をする時間もへってしまった。お父さんは「コンビニで買ってくるか、外食すれば良いだろう」って言う。
僕が料理しなくても誰も困らない。じゃあ、僕はただお父さんの言う通りにしていれば良いんだろうか。自分のきもちが良くわからなくなってしまった。
なんだか無性に陽介に会いたくなった。会えないなら、せめて陽介の声が聞きたい。
食材を買うためのお財布の中に入れておいたテレホンカードを手にした。電話を探して歩き回った。
奥に暗くて大きい部屋があって、中に進んでいくと、たくさんの大人があちこち歩いている。
「あら、子役はこの番組には呼んでないはずだけど。出演者のお子さんかな? ここは機材が行き来するから危ないよ」
たくさんの荷物を持っているお姉さんがしゃがんで僕に話しかけてくれた。
「あの…電話ってありますか?」
「公衆電話?」
うなずくと、お姉さんが電話のある場所への行き方を教えてくれた。お礼を言って電話のある場所まで移動した。
陽介のケイタイ番号は覚えていた。何かあった時はいつでもかけて良いぞっていつも言っていた。今も同じだろうか。もう電話したらメイワクかもしれない。それでも、一瞬でも良いから声が聞きたい。
番号を一個一個、押すたびに胸の音が跳ねて、ちょっと痛い。手がふるえてしまって、まちがわないようにゆっくり押した。
押し終わって、電話がつながるまでの間に何度も切ろうと思った。今はおしごと中かもしれない。だけど…だけど。
『もしもし?』
つながって、びっくりして受話器を落としそうになった。あわててつかみ直して耳に当てた。間違いない、陽介の声だ。
『もしもーし、どちら様ですか?』
「………っ」
しゃべったらきっとダメだ。僕だってバレたらきっと陽介が心配する。陽介は優しいから、僕が困っていたらきっと助けに来ちゃう。ダメだ。僕に近づいたら、陽介がたくさんの人に悪口を言われちゃうんだから。
『……悠? もしかして悠なのか?』
名前を呼ばれたら、ぎゅうっと胸がしめつけられて、苦しくなった。ココアみたいにホッとする、やさしい声。変わらない、ぼくの大好きな声。
僕の名前を大切そうに呼んでくれた。
涙が自然にあふれた。ぼろぼろとほっぺたを流れた。
僕はずっとガマンしていたことに気がついた。ずっと苦しかったんだ。イヤなことをガマンして、お父さんの言うことを聞いていれば良いんだって思いこもうとしていた。何も考えないようにしていた。だけど僕がガマンしても、誰も笑ってくれなかった。
悲しい。さみしい。陽介のそばにいたい。
『なあ…何か言ってくれ。今、どこにいる』
「おい、悠」
遠くからお父さんの声がして、あわてて電話を切った。涙をウデでぬぐって、走って、お父さんの所に行った。
「あまり遠くに行くな」
「ご、ごめんなさい…」
僕を見て、お父さんが怖い顔をした。
「何をしていたんだ」
陽介に電話していたって言ったら怒られるだろうか。たたかれるのはイヤだ。
「中を…見学していました」
「……ふん」
お父さんの後をついていくと、テレビ局の出口に向かった。
その途中で、さっき電話の場所を教えてくれたお姉さんがいたからおじぎした。
「あの、お父さん」
お父さんは歩きながら僕を見た。
「僕、もうモデルの仕事をしたくありません」
「何をバカなことを言っている」
「それにね、僕、陽介のところに戻りたい…。もっと料理の勉強をして、料理人になりたい」
ワガママを言っているってわかっている。だけど、自分の望みをハッキリ口にできて、スッキリもしていた。
「佐藤とか言う男になにか唆されたか」
「ちがいます、僕自身が思ったことです。誰かに言われたことじゃないです」
お父さんが僕を見て、眉をつり上げた。頬や目のまわりがピクピク動いていて、今まで見た中で一番怖い顔をしている。
「…お前は俺の子どもだ。なのに俺から逃げるつもりか」
「ちがいます、そうじゃなくて…」
手を掴まれて、引っ張られてムリやり歩かされた。何だかすごくイヤな感じがして、逃げようとした。だけど肩をつかまれてうまく逃げられない。
「はなして、ください。痛いです…っ」
「ちょっと、何をしているんですか。その子、嫌がってるじゃないですか」
さっきのお姉さんが走ってきて、お父さんを引きとめてくれた。
「俺の子どもだ。部外者は黙ってくれないか」
そう言われて、お姉さんが迷ったように僕の目を見た。
「あの…お願いします。助けてください」
「ほら、やっぱり、嫌がってるじゃない」
お姉さんが僕とお父さんを引き離そうとしているうちに、さわぎを見て、僕達の周りに人だかりができた。チッとお父さんが舌打ちした。
お姉さんが他の人たちに説明すると、お父さんは警備員さんに連れていかれた。僕は別の部屋に案内されて、お姉さんたちに話を聞かれた。
僕が陽介と暮らしていたこと、お父さんに連れていかれて今はお父さんと住んでいること、モデルの仕事がイヤで、陽介のところに戻りたいと言ったらお父さんが怒ったこと。それらを話すと、お姉さんがむずかしそうな顔をした。
「どうしましょう。今の話だと、私たちには…」
「たたかれたり、なぐられたりするのもイヤだけど、自分の心にウソをつくのが一番イヤなんです。お願いします。助けてください」
もう一度お願いすると、お姉さんは他のおじさんと顔を見合わせた。それから僕を見た。
「…お父さんになぐられた痕とかある?」
僕は服のすそをまくり上げて、お腹を見せた。紫になっているお腹を見て、お姉さんがおじさん達と話した。
「警察を呼びましょう」
そう言ったので、僕はお財布に入っている佐藤さんの名刺を出して見せた。
「あの、この人にも電話してもらえますか。きっと助けてくれるから…」
お姉さんがうなずいてくれて、僕はほっとした。だけど、お父さんには悪いことをしてしまったかもしれない。もし、またお父さんと顔を合わせたら、すごくすごく怒られるかもしれない。
僕は病院に連れていかれて、お医者さんに叩かれたり、お腹をなぐられたことを説明した。いろいろな検査をして、部屋から出ると、佐藤さんが部屋の前に立っていた。
「悠君」
佐藤さんの顔を見たら、ちょっとホッとした。佐藤さんはかけ寄って、僕をぎゅっと抱きしめてくれた。
「ごめん。こんなことになる前に君を守れなくて。自分が不甲斐ないよ」
どうして僕のことなのに、佐藤さんがあやまるんだろう。きっと僕のことを心配してくれていたんだろう。
「僕は大丈夫です。佐藤さん、心配させてごめんなさい」
「君は…人のことばかり心配するんだね」
そう言って、佐藤さんが泣きそうな顔をした。
「陽介がそうだから。僕にもうつっちゃったかも」
陽介が自分のことを置いて、いつも僕のことを心配してかけつけてくれるから。いつの間にか、僕もそうなったのかもしれない。
何度も佐藤さんに頭を撫でられて、くすぐったい気持ちになった。
お医者さんからは「損傷はあるものの、骨や内臓に異常はありません。以前から複数回虐待を受けていた可能性があります」と言われた。お父さんに前にも殴られたかと聞かれて、僕はうなずいた。
ウソをついても陽介は守れない。だったらちゃんと本当のことを話さなくちゃ。ウソつきの言葉なんてきっと誰も信じてくれないから。
「証拠写真を撮らせてほしい。君のいのちを守るために必要なことだから」
佐藤さんにそうお願いされて、うなずいた。服をまくって、お腹や背中の写真を撮った。
それから、佐藤さんと一緒に警察の人とお話して、夜は佐藤さんが働いているところに泊まることになった。
「しばらくここから学校に通おう。もしお父さんが学校に会いにきても絶対会ってはいけないよ。また君を連れ戻す可能性があるからね」
「あの、佐藤さん…お父さんに謝っちゃいけないんですか」
「謝るって、君が…かい?」
うなずくと、佐藤さんが目をパチパチさせた。
「僕、いっぱいワガママを言ってお父さんをこまらせたから。それにね、お父さんにも笑ってほしいのに、僕、笑わせられなかったから」
そう言うと、佐藤さんは悲しい顔をした。
「…それは大人にも難しいことかもしれない」
「どうしてですか?」
「色んな子どもたちの成長を見ていたから何となくわかるんだ。君のお父さんは親からの愛情を受けずに育ったのかもしれない。そういう人の多くは心が歪んでしまって、素直に愛情を受け入れることができないんだ」
僕や他の誰かがお父さんに何かしてあげたいと思っていても、お父さんは受け入れられないんだとしたら。
「お父さん、かわいそう」
「うん…そうだね。できればお父さんには心のケアを受けてほしいよ」
「僕、お父さんに何もできないのかな」
佐藤さんはじっと僕の目を見た。
「あるとすれば悠君。君が笑って過ごすことだよ」
言われたことがよくわからない。そう思って、顔をかたむけると、佐藤さんは言った。
「君が幸せに生きることが、きっとお父さんの良い見本になる。僕はそう思うよ」
僕は施設にいる間、手紙を書いた。お父さんへの手紙だ。
『お父さん、言うことを聞かなくてごめんなさい。お父さんには笑っていてほしいのに、笑わせられなくてごめんなさい。もう会えないかもしれないので、手紙を書きました。やさしい時のお父さんは好きです。カレーをたくさん食べてくれてうれしかったです。ひとりでもちゃんとご飯を食べて、元気でいてください』
その手紙を佐藤さんにお願いしてお父さんに出してもらった。
すると、ある日、お父さんから電話が来た。どうしても僕と話したいらしい。
「悠君。出なくても良いんだよ」
佐藤さんが心配してくれたけど、僕は首を横に振った。ちゃんとお父さんに謝らなくちゃ、そう思って電話に出た。
「はい。お父さん、僕…」
『悠、お前も俺を捨てるのか』
「え?」
お父さんはひとり言みたいに何か言っている。『お父さんもお母さんも、早紀も…あいつも…どうして俺を見捨てるんだ。みんな、俺を置いていってしまう』
「お父さん? あのね」
『助けてくれ、悠』
急に大きな声を出したから、ビックリして声がうまく出せない。
『助けてくれ、もう約束して、手付金をもらっているんだ。お前は俺を見捨てないだろう?』
初めて本当に、お父さんの本心から「助けてほしい」と言われた気がした。だから、言葉はうまく出なかったけど、うなずいた。
「最後だから」と、お父さんは何度も言った。佐藤さんたちには内緒でお父さんと一回だけ会うことになった。
施設の人に送ってもらって学校に行って、その昼休みに学校の裏門でお父さんと待ち合わせをした。
なかなかやってこなくて、もしかして他の門で待ち合わせだっただろうかと考えはじめた時だった。
急に手を引っ張られて、ビックリした。
見ると、お父さんが怖い顔をして、黙って僕を引っ張って歩き始めた。
「お父さん、痛いです。あの、」
近くに車があって、その中に乗せられた。
「あの、お父さん、僕早退するって先生に言ってないです」
「言っただろう、これが『最後』だって」
運転するお父さんの顔を見たら、表情がぜんぜんなくて、何だか怖かった。
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No.275|主花SS「家族ごっこ」|Comment(0)|Trackback